律法を恐れるな


サイラス・I・スコフィールドは、「モーセにおいて、イスラエルはうっかりと律法を受け入れてしまった」と述べた。

ディスペンセーショナリズムにおいて律法とは、「それによって救いに達するためのもの」である。

しかし、聖書では、救いに達するには「信仰のみ」である。

このことを図的に説明するならば、

アダムのときにまだ罪を犯しておらず、完全な状態において、律法の二枚の板は無害であった。(十戒の板は後に与えられるが、神の性質は不変なので同じ律法が元初から存在したと考えられる。)

しかし、罪を犯してから、この板は、殺傷能力を持ついわば原発の「放射性燃料」のようなものになった。

これに直にさらされると人間は死ぬ。

そこで神は、イエス・キリストに、身代わりに律法の要求する刑罰を受けさせ、殺された。

イエス・キリストは、律法の板を覆う契約の箱の役割を果たされた。

板が契約の箱に収められているのは、あたかも燃料棒が原子炉の中に閉じ込められているのと似ている。

イスラエルは、神と契約を結んだときに、むき出しの板を与えられたのではなく、契約の箱に収められて無害化したものを与えられた。

だから、モーセ契約とは、律法を守ることによって救われる道ではなかった。

モーセ契約に入ったイスラエルは律法を守ったからではなく、律法の要求を満たすために殺される救い主を信じる信仰によって入った。

イスラエルは、律法を守るシステムではなく、律法を破った場合に捧げるべき贖いの供え物のシステムの全体を受け入れたのである。

われわれが自動車免許を取る場合、違反をしても回復できるシステム(1)の中に入る。

違反をしたらそこですべておしまいというシステム(2)ではない。

ディスペンセーショナリズムは、モーセ契約を(2)だという。

しかし、契約神学は、(1)だという。

どちらが正しいか?

もちろん(1)だ。

ディスペンセーショナリズムの考えに従うならば、律法が害毒になる。

なぜならば、人間は完全に律法を守れないから。

だから、ディスペンセーショナリズムに汚染された今の福音派などでは、律法は忌避の対象なのだ。

契約神学では、律法は恵みである。

なぜならば、それによって祝福されるから。

ノンクリスチャンは、律法を知らないためにやってはならないことをやって、自ら呪いを被っている。

クリスチャンは、律法を知っているから、そういう邪悪な生活はしない。

ディスペンセーショナリズムは、「律法は、それを破れば永遠の命を失うものだ」と考えるが、契約神学では、「律法はそれを破っても、イエス・キリストによって悔い改めることによって復活できる」と考える。

だから、契約神学において、律法は恵みの教えとして研究の対象になるが、律法を忌避するディスペンセーショナリズムでは触れることも恐ろしいものとなる。

それでレビ記や申命記などは説教からのぞかれる。

だから、福音派のクリスチャンたちは、ほとんど新約聖書の知識しかないので、片手落ちなのだ。

律法の豊かな世界を知らない。

神の啓示の重要な部分がごっそりと抜け落ちている。

恐ろしいことだ。

われわれは、律法を恐れの対象として見るのではなく、恵みの教えとして見るべきで、それを研究して、神の御心を知るべきだ。

 

 

2013年2月17日



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