イエスは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11・25-26)と言われた。
ここで2つのことが言われている。
(1)死んだ信者の復活
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とは、旧約時代において、亡くなった信者である。
旧約時代には、死者は、黄泉に行った。
信者は、アブラハムのもとにある場所に行き、不信者は、苦しみの場所に落ちた。
…さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
…」(ルカ16・19-31)
キリストが復活された後に、死者が復活した。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。(マタイ27・53)
イエスの復活以降、亡くなった信者は復活した。
つまり、イエスが「よみがえり」であり、「いのち」なので、イエスを「信じる者は、死んでも生きる」のである。
旧約時代に亡くなった信者は死んでいたが復活した。これは一部であった。
残りのすべての信者は、紀元70年に携挙が起きる際に復活した。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・15-17)
この携挙は、「私たち」が「生き残っている」間に起こる。(*)
つまり、紀元1世紀に起きる。
それは、事実、神殿が崩壊してオールド・ワールド・オーダーが終焉し、ニュー・ワールド・オーダーが到来する紀元70年までに起きた。
その際に、「キリストにある死者が、まず初めによみがえ」った。
そして、信者が生存すべき場所、つまり、パラダイスに上った。
それに続いて生存していた信者たちも上った。
紀元70年までにすべての死んだ信者が復活し命を与えられ、現在でも生きている。
(2)信者の不死
「生きていてわたしを信じる者」は、「決して死ぬことが」ない。
つまり、イエスの復活以後、信者は死ななくなった。
旧約時代においては、死んで黄泉に行ったが、新約時代においては、信者は死なない。
旧約時代においては、信者は魂だけになって黄泉に行ったが、新約時代においては、魂だけになることはなく、即座に「御霊のからだ」が与えられて復活し、パラダイスに上る。
それゆえ、現在、パラダイスには、2者がいる。
1)イエスとともに復活しからだを与えられた、旧約時代の信者
2)肉体を離れてすぐにからだを与えられて復活した、イエスの復活後のすべての時代、つまり、新約時代の信者
この両者ともからだを持っているので、われわれと一体である。
だから、聖餐において、われわれ地上に生活するクリスチャンは、天にいるこれらの2者のクリスチャンたちと同じパンと葡萄酒を飲み、一体である。
それゆえ、われわれは、死別というものがない。
クリスチャンの肉親が死んでも、それは死んだのではなく、今でも生きており、しかも、われわれと同じ食卓につき、パンと葡萄酒を飲んでいる。
常にわれわれは一体であり、キリストにあって、一つである。
(*)
原語では次のとおり:
hmeiV oi zwnteV oi perileipomenoi eiV thn parousian tou kuriou
http://www.greeknewtestament.com/B52C004.htm
=we, those who will be alive and remain into (until) the coming of the Lord
=私たち、つまり、主のパルーシア(来臨、臨在)まで生き、残っている人々
ここで明らかに、「私たち」は「主の来臨まで」生き残っていると言われている。
だから、この「来臨」は、パウロと同時代に起こることは明らかである。