滅びる人は古巣に帰る


学生時代に、教会の学生会のキャンプで、聖書を学んでディスカッションすることをよくやっていた。

教会で、畑のたとえについて聖書研究した。


イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六倍、あるものは三倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。(マタイ13・3-14)

私たちは、このたとえは「土地の側の問題」としてとらえた。

つまり、福音を聞いても、土地が悪ければ実を結ばないと。

すなわち、「選びの問題」として考えた。

福音を聞いて悟り、それによって実を結ぶかどうかは、神の側の選びによって変わると。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」

どうして悟ることができないのか。見てもわからないのか。

選ばれていないからである。

努力の問題ではない。

はじめから決定している。

天地がはじまる前から、神は実を結ぶ人を用意された。

このような解釈をしたところ、オブザーバーとして参加していた若い牧師が「それは違う。努力の問題だ。頑張れば悟ることができる」と。

アルミニウス主義である。

カルヴァン派の教会なのに。

その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・11-16)

はっきり書いてあるではないか!!

なぜ人間的な解釈をするのか!!

ヤコブが選ばれ、エサウが退けられるのは、もともと神の側で「生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに」決まっていたのだ。

人間が救われるかどうか、そして、神の国のために実を結ぶかどうかは、人間の側の問題ではない。

最初から、「よい地」として生まれてきた人もいれば、「カラスに種を奪われる土地」「土の薄い岩地」「いばらが覆いやすい土地」もいる。

神の国の発展は、すべて神の側の問題であって、人間の側のそれではない。

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8・44)

なぜパリサイ人は、イエスを迫害したのか。

そのように選ばれていたからだ。

「悪魔から出た者」として生まれてきたからだ。

どこかで間違った道に入って悪魔に従うようになったというわけではない。

「悪魔が父親」なのである。

2.

では人間は、選びだから救いをあきらめるしかないのか。

救われたいと望んでいる人は、すでに選びの中にいる。

滅びに至る人々は、福音を笑う。

必死になって救いを求めている人は、選ばれているからそうしている。

人間は、霊的死人として生まれてくる。

あたかも、マリアナ海溝の1万メートルの海の中に沈み、サメに心臓を食べられて、死後ずいぶんたっている人のようだ。

救われたいとも思わない。

もがきもしない。

救いに予定された人は、まず神の側で命を与えられる。

心臓を復活させ、元通りにして意識を回復される。

そして自分が溺れていて、助けが必要だと気付いている。

そのとき、神が救いの手を差し伸べられる。

3.

どんなにプレ・ミレが間違いだと指摘しても、反応しない人は、死んでいるのである。

聖霊が与えられていたら、真偽・善悪の区別はつくはずである。

だから、時間がたてばわかるというようなものではない。

知識がないためにわからないというのであれば、時間が必要だということになるが、このサイトで十分な知識を得てそれでも正しいほうに舵を切らないのは、もともと滅びに予定されているからにほかならない。

だから、伝道とは、延々と行う類のものではない。

その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ャhムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。(マタイ10・13-15)

「家」が問題なのだ。

伝道者の熱意が問題なのではない。

営業セールスのように「熱意にほだされて買った」などということはない。

「ふさわしい家」でなければ、いずれ福音を捨てる。

滅びる人は、自分にとってふさわしい古巣に帰る。

 

 

2016年1月30日



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