御国のすべては上から来る
イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18・36)
1.
「イエスの国はこの世のものではないから、この世を変えようとしても無駄だ。再臨を待ち望むだけでよい。」
このように考えるクリスチャンが多い。
イエスはこう祈れと言われた。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6・10)
地上が変わらなくてもいい、という考えは間違いである。
地上に「御国が来」、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれ」るようになることが願いであるならば、どうして「地上は変わる必要はない。改革は無駄だ」とイエスが教えられた、と言えるだろうか。
ヨハネ18・36の「わたしの国はこの世のものではありません」は、「この世と無縁である」とか「この世には存在しない」という意味ではないことは、明らかである。
では、それはどのような意味なのだろうか。
イエスがここで言おうとされたのは「わたしの国は、この世に由来するものではない」という意味である。
つまり「この世に頼り、この世に期待し、この世から得られるものではない」ということである。
「わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦」うことを通じて得られるようなものではない。
イエスの国は、政治的、軍事的、世俗的な権威や権力を通じて得られるようなものではない。
「御国」は「来」るものである。どこから?上から。
黙示録で新エルサレムは、天から下ってきた。
御国は、地上の力を操作して得られるものではなく、神から下ってくるものである。
地上的なものや、世俗的権威を積み上げてできあがるものではなく、神からの下賜である。
だから宣教は世俗的権威を必要としないのである。
「○○大学院でPh.Dを取った牧師ならば神の国は確立できる」というようなものではない。
教会にノーベル賞受賞者がいたとしても、神の国となんの関係もない。
「天皇陛下から勲章をもらえば、世の人たちは私のことを見直してクリスチャンになるに違いない」という期待も間違い。
御国は、世の人の評価によって作られるのではなく、神の御心だけで築かれる。
神がお望みになれば、それだけで、地上に御国はできる。
弟子たちが剣を取って戦わなかったのに神の国は到来した。
イエスがあっさりと敵の手に渡され、十字架につけられて殺されたにもかかわらず、神の国は到来した。
なぜ?
神の御心は絶対だから。神がお望みになれば、実現するから。
戦う必要もない。
人間の手から権力をもぎ取らなくても、神がイエスに王権を与えられ、それにより地上はイエス・キリストの御国となった。
人間的な方法では、御国は成就しないのである。
人間の力など関係がない。
御国は神の賜(たまもの)であって、努力の結晶ではない。
2.
「神の賜であり、人間の努力が不要であれば、宣教師はなぜ船に乗ってアフリカに行ったのか?」と問われるかもしれない。
このような努力は、実は、賜なのである。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2・13)
われわれが「神のために働きたい」と願う願いは、神から来る。
神がわれわれに志を与えてくださるがゆえに、われわれは神の国のために働ける。
われわれが宣教の御業に参加できるのは、まず神がわれわれの心に願いを与えてくださるからである。
第一原因は常に神である。
「私が願い、働いたので、今日の教勢があるのだ」と言わせないために、神は「宣教の願いをおまえに与えた」と言われる。
御国のすべては、上から来るのである。
2017年12月19日
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