聖書的に正しい世界観とは
世界観は、存在論、認識論、倫理から成立するが、聖書的キリスト教の世界観において、それぞれの要素の根拠は、三位一神にある。
1.存在論
天地創造の前に、3人の神が互いに契約を結ばれ一人の法人として存在された。
これが、万物の存在の根源である。
つまり、被造物の存在の形式は「一と多」であり、「統一」も究極的価値があり、「多様性」も究極の価値がある。
それゆえ、われわれは「世界の国々の国境を撤廃して、単一の政府をいただく統一世界(ワン・ワールド)にならねばならない」と考えるべきではない。
または「世界に統一した秩序が存在する必要はない。バラバラでいい。」と考えるべきでもない。
「世界は、多様な国家が契約を結んで一つの世界を形成する」と考えるべきである。
2.認識論
天地創造の前に、3人の神が互いに対して持っていた知識(神の自己認識)こそが究極である。
すべての認識はここから出発すべきである。
ヒューマニズムは、「存在を疑うことのできない自分に関する知識」を前提として出発する。
「世の中には迷信が多い。聖書も間違いがあるかもしれない。確実なものはなにか。今考えている自分。これこそが唯一疑いようのないものだ。そこを出発点にしよう。自分が触っている机。これは存在する。机の上に載っている花瓶。これも存在する。・・・」
このようにして自分を中心に認識を拡大していく方法が取られた。
しかし、聖書の認識論とは「永遠の存在である第一原因である神が世界の歴史が始まる前に互いに持っておられた知識こそが究極の知識であり、絶対的確実である」というものである。
被造物である人間は、この知識に依存している。つまり、神が述べた言葉こそが究極の真理であり、それを疑うことはタブーである。
人間は自分にとってどう思えようが、神の言葉である聖書がそうであると言えば「そのとおりです」と問答無用に認めなければならない。
3.倫理
神が天地創造の前に制定された倫理基準こそが、究極の善悪の判断基準である。
われわれが「故意の殺人犯を処刑すべきだ」となぜ考えなければならないかというと、天地創造の前に神が誰にも影響されずに定められた倫理基準がそのように規定しているからである。
聖書に記された神の法は、永遠不滅の法であり、それに反する基準を設定することは、アダムとエバがエデンの園において犯した罪を犯すことになる。
聖書的に正しい世界観とは、三位一神「のみ」に根拠を置くものであり、それ以外、われわれは正しい世界観を持てない。
2016年11月3日
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