未来志向ではない神学から離れるべきだ


クリスチャンは、契約の民である。

契約の民とは、キリストと一体であるということである。

われわれは、キリストと一体であるから、われわれには主権がある。

この世界を支配する合法的な権利と権威がある。

そのため、われわれが祈ることによって、違法な支配者を排除することが可能である。

世の人々は、「力こそすべてだ」と考えている。

これは、神の創造秩序を知らないからだ。

神の創造秩序とは、「神の契約に入り、御心を行う者に支配権と力を与える」というものである。

この世界が創造されたものでなければ合理性はない。

しかし、この世界は創造された世界なのだ。

分子、原子、素粒子一つ一つが神の創造物である。

だから、それらについて神が所有権と主権をもっておられる。

その全権を持つ神から任命されて、この世界を支配するように定められた人々が契約の民である。

われわれがキリストを信じて、キリスト契約の中に入ることによって、合法的に世界を支配する権威が与えられた以上、われわれが祈って活動することにより、徐々に世界はわれわれのものになる。

それゆえ、われわれにとって、「否定的な言葉」「無力感」「弱気」「後ろ向きな発想」「絶望」「死」「病気」「不能」に関するものは、ことごとく御法度である。

律法において、死体に触れる者はけがれるという規定はこのことを表している。

契約の民は、生ける神の民であるから、死とは無縁である。

われわれは、死なない。

体が切り替わるだけだ。

この肉体を離れるときに、新しいからだが与えられる。

それは永遠のからだである。

だから死と触れてはならない。

律法には感染症の規定がある。

これは、人間が互いに有機的につながっていることを示している。

人間は個体であると同時に、共同体である。

われわれは、孤立していない。

人がかかった病気に感染する。

感染を防ぐための規定が律法にあるのは、人の罪が自分に及ぶことのないためである。

否定的な気持ちの人と付き合うべきではない。

後ろ向きの発言は伝染する。

世界に対して全権と主権を持っている人間らしく振舞わないクリスチャンと接触してはならない。

自分が同じような、否定的な人間になるから。


思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。(1コリント15・33)

先日の川崎における殺人事件でも、悪い仲間に入ると、人殺しまですることになる。

主犯の少年は日ごろから「人を殺したい」と言っていた。

殺人の悪霊が、彼に入ったのだろう。

殺人の悪霊が入ると、それを実行するまで落ち着かなくなる。

ちょっとしたチャンスを見つけて、因縁をつけて、殺害に及ぶ。

秋葉原での通り魔殺人の犯人は、笑いながら人を次々と襲っていった。

なぜか。

中にいる悪霊がそれを望んでいたからだ。

こういう悪霊に取りつかれた人と友達になれば、自分も巻き込まれる。

殺人の霊だけではなく、いろんな悪霊がいる。

その悪霊に取りつかれた人と接触するならば、自分もその悪行に巻き込まれる可能性が高まる。

または、同じ霊に憑依されるかもしれない。

私が今のクリスチャンと呼ばれる人々と接触したくないと思うのは、思想の基本が「後ろ向き」だからだ。

世界を支配するということが頭にない。

何を求めて生きているかというと、「逃げること」である。

この世界から逃避し、再臨を待ち望んでいる。

改革ではなく、逃避しか考えにない。

昔のクリスチャン仲間と話しても会話が続かない。

いわば「同窓会的な雰囲気」になる。

昔はこうだったね、みたいな。

「これから日本はこうなる」みたいな話が出ない。

話を突き詰めていけば、最後は喧嘩になるだろう。

だから、途中で別れる。

別れた後で、「無駄な時間を使った」という意識しかない。

社会に目が向かず、内面ばかり。

内面のことを、ああでもないこうでもないとほじくり返す。

この心情が理解できるのは、かつて自分もそうだったからだ。

貴重な青春時代を、際限のない内省で無駄にした。

神学が間違うと、人生を無駄にするのだ。

「世界は変えられない。再臨を待つしかない」という神学によって、クリスチャンと呼ばれる人々は、骨を抜かれた。

際限のない内省という無駄な作業を強いられている。

これは悪魔の戦略である。

プロテスタントは、ディスペンセーショナリズムを通じてローマ・カトリック化した。

「瞑想」「内省」「聖化」「デボーション」…

こういうものは不要であるとは言えないが、時間は短くていい。

自分を反省するのはすぐにやめる。

そして、外に向かって働きかける。

大部分の時間を神の国建設に使うべきだ。

大統領や総理大臣が内省ばかりして国が立ち行くだろうか。

「統治する任務」を与えられた人間は、自分の内面の問題を際限なく扱うべきではないのだ。

われわれは、統治するために召されたのだ。

この統治をさせないために敵は懸命に内省に向かわせようとする。

あわよくば精神病にして、妄想や幻視、幻聴、お化け、UFO、その他の問題で一日を浪費させたいのだ。

劣等感とか優越感とか、そういうくだらない問題に主な時間を使わせたいのだ。

神学的な攻撃は本質的な攻撃である。

物理的な戦争は末端の事柄である。

神学で間違えば、どの人間も組織も国家も崩壊する。

際限なく恨む悪霊に取りつかれた韓国や中国を見ればわかる。

5000年の歴史とか言っているが、建国200年のアメリカに勝てないではないか。

未来志向ではない神学から離れるべきだ。

 

 

2015年3月11日



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