クリスチャンはこの世界に住んでいるのでノンクリスチャンからの評判に惑わされやすい。

学者は、学会での評価を気にしてきた。
聖書の解釈もできるだけ科学の発見に合致させようとしてきた。
六日で世界が創造されたなどというと、学会で立場を失うと思い、長期のタイムスケールを採用してきた。
創世記に関して多くの神学者たちが妥協をしてきた。
妥協した結果、人々は聖書に対する確信を失った。
世俗化の波にのまれ、キリスト教はもはや瀕死の状態である。
学会とかどうでもいいのである。
世間の評価とか、あてにならない。
オリンピックで金メダルを取ったとか取らないとか、どうでもいい。
クリスチャンは、聖書に基づいて独自の学会、独自のスポーツ界を作ればいい。独自のオリンピックなるものを作ればよい。
しょせん、世界観が完全に異なる人々の間で評価を得られるわけがない。あきらめるべきだ。
では、クリスチャンは世界に影響を与えることができずに、いつまでたっても少数派にとどまっていいのか、という疑問が起きるであろう。
クリスチャンは、聖書に忠実であればあるほどキリスト教をパワフルにできるのである。
へんに相手に妥協して、相手の価値観にしたがって生きるから、パワーを失うのである。
ミッションスクールは敵と妥協し、啓蒙主義(モダニズム)の学問を受け入れてそれを生徒に伝えている。
それで、生徒はクリスチャンになっているだろうか。社会は変わっているだろうか。
ミッションスクールが世俗化したことによって、キリスト教は日本社会を変革する原動力になっているだろうか。
逆だ。
どんどん相手に侵食されている。
ミッションスクールが左翼運動の母体になっていることすらある。
SEALsの奥田氏の父親は日本バプテスト連盟の牧師の奥田知志で、ホームレスや貧困者を支援するNPO法人「抱樸」の理事長を務めているそうで、自身はキリスト教ミッション高校の出身だそうだ。
聖書への不信、そして、人間の頭が作り出した教えを聖書の上に権威として設定することによって、キリスト教は自分がいったい何者かわからなくなってしまった。
そのため、大胆に聖書の使命を実行しなくなった。
世の中にあって、光となり、塩となる務めを放棄してきた。
妥協せずに、聖書を神の言葉として、最高権威として尊重し、それを実行することなしに、世界を変えることは不可能である。
妥協しなければ、世の人々は、われわれのほうにやってくる。
ノンクリスチャンは、生活の指針を失ってさまよっている。
子育てで何が基準か、何をもって子供を訓練したらよいのかわからない。
クリスチャンには、聖書の教えがある。
この神の不滅の基準を適用し、それによって天から受ける祝福を世の中に示すことができれば、おのずとノンクリスチャンたちは、子供の教育をわれわれに任せるようになり、われわれが始めた学校に集まってくるようになる。
要するに、われわれがしっかりとした聖書理解を持ち、それを教育や職場に適用すれば、人々はわれわれのほうにやってきて、指導を仰ぐようになるのである。
妥協することによって、実は、回り道をしている。
馬鹿にされようがなんだろうが、進化論を否定し、六日創造説を固持すべきだ。
学会から追い出されたらそれでよい。
自分で新しい学会を作ればいい。
いずれそちらが本当の権威と呼ばれるようになるだろう。
各自、自分に与えられた十字架を背負うことなしに、本当の祝福は得られない。

 

 

2016年8月21日



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