神がわれわれに求めておられるのは「中身が全部くりぬかれた皮一枚の人間になること」である。
生まれながらの人間の皮の下には肉と骨と霊がある。
この肉と骨と霊は、エデンの園において堕落しており、「私こそ神だ」と訴えている。
われわれの細胞の一つ一つが堕落の影響化にあり、そのすべてが「神よりも私のほうが偉い。自分大好き!」と叫んでいる。
クリスチャンになると、この堕落し腐った肉体と霊に、御霊という要素が加わる。
つまり、クリスチャンとは「肉体と霊と聖霊」という3つの要素から成り立つ存在である。
クリスチャンは「神の作品」である。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペ2・10)
クリスチャンになると同時に、神の創作活動が始まる。
クリスチャンは、改造され始める。
神の希望する姿になるまで。
理想型は、キリストご自身である。
キリストは、クリスチャンの模範である。
キリストのような存在に変わるまで、神は試練を与え、徐々に堕落した肉と骨と霊をくりぬかれる。
そして、最後には、皮の下は御霊だけになる。
この世的な考え方をしていた人が、数々の試練を通じて、御霊の考え方に変わる。
以前は、「自分大好き」人間だった人も、最後には「神様大好き」人間に変わる。
「自分の名誉とか願望とかどうでもいいです。神様だけが栄光を受け、御心だけが成就しますように!」と言えるようになる。
あるアメリカの伝道師のインタビューのビデオで、司会者が、アメリカの教会では「いかに幸せになれるか」が主に教えられていると述べた。
「いかに幸せになれるか」を追求するようなクリスチャンは、まだ皮の下に肉と骨が詰まった人である。
皮の下に御霊しかない人は「神がいかに幸せになれるか」をひたすらに追求する。
そのために彼は「御心とは何か」にいつもこだわる。
「何をしたら神は喜ばれるのだろうか」と常に心配している。
だから「聖書を勉強すると暗くなります」などと絶対に言わない。
「聖書なんてどうでもいい。いかに教会が成長するかが問題だ」などと言わない。
なぜならば、聖書を読まなければ御心はわからないからである。
聖書から外れる教えを信じながら、どうして神の幸せが実現するのだろうか。
本当に相手を愛しているならば、その相手が何が好みかを調べて贈り物を贈る。
嫌いなものをプレゼントする人は、相手を愛していない。
だから、聖書信仰ではないクリスチャンは、クリスチャンではないのである。
それは勝手に「クリスチャン的と思われることを勝手に追求する人」に過ぎない。
神様そっちのけである。
「教会を成長させるのに手が一杯です。神様、ちょっと黙っていてください」というような教会は、教会ではない。
入試試験では、「題意を見抜く」ことがもっとも求められる。
数学において「この問題で出題者は何を求めているのか。どの公式を使えばいいのか」を見抜けない人は、点を取れない。
問題を自分勝手に解釈して、題意を見抜けない人は失敗する。
聖書を読んで、神の御心を正しく理解しない限り、神に喜ばれることはない。
神の御心をしっかり把握し、神との意思疎通に障害がない人こそが、御霊の人である。
こういう人は、神の力を現す。
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代誌16・9)