モンスターペアレントが愚かなわけ


1.

モンスターペアレントが愚かなのは、子供の人生の土台を破壊しているからである。

善悪の区別をしっかりつけてあげることは、人生の土台の設置である。

建物の場合、土台に鉄骨の杭が地中深く安定した岩盤に達するまで打ち込まれているならば、建物の自由度は上がる。

高い建築も可能になる。

しかし、土台の杭が岩盤に達せず、途中で止まっているならば、建物が傾く恐れがあるので、自由度は減る。

モンスターペアレントが子供に対して与えているのは自由ではなく、不自由である。

親に甘やかされ、道徳というしっかりした土台を与えられていない子供は、大人になってから苦労する。

社会的に信頼されないのである。

行動の随所に甘えが見られる。

今の韓国人を見れば明らかである。

約束が守れない。

その時々の自分の気分で行動が変わるので、不安定との烙印を押される。

誰も仕事を任せる気にならない。

次第に孤立し、貧困に落ちていく。

中国と韓国は失敗する。

なぜならば、道徳心が欠落しているから。

インドネシアで中国が日本を出し抜いて高速鉄道案件の入札に成功したが、空約束をしたため、工事が中断している。

アメリカでの案件もとん挫。ニカラグアでも運河建設が滞っている。

仕事がアマチュアなのである。いいかげんな契約を結んで、後からいろんな条件が増えていく。

インドネシアの場合も、金銭的に実現できなくなった場合の政府保証を免除した契約だったが、今になってそれを要求しているという。

要するに、甘えが許される文化なのである。

親が子供をしっかりとしつけられない。

キリスト教の文化以外では、親が愚か者になる。

キリスト教では「人間は堕落した存在なので、幼いうちに訓練し、善悪の基準をしっかりつけてあげなさい。そうしないと人生において無駄な苦労をし、成功できない」と教える。

しかし、キリスト教以外では、人間の堕落性が認識されることはないし、人生の成功・不成功が倫理と密接に関係しているとも教えられない。

だから、アジアはヨーロッパに遅れたのである。

日本は根底にキリスト教文化があるから、発展できた。

しかし、中国や韓国、その他のアジア諸国では、子育ての段階で失敗しているから、いくらある世代がたまたま発展しても、それが長続きしない。

成金の中国の親たちは、一人っ子政策で、一人しかいない子供を溺愛し、小さな皇帝を作った。

中国人と議論していると、議論もなにもへったくりもない。

ただ、自分が考えたことがそのまま正しいと主張する。

反論をすべて無視する。

反省心はない。だから、ずっと同じ考えを持ち続け、日本人は南京大虐殺したとわめくだけ。

「大虐殺があったなら、30万人の犠牲者の遺骨はどこにあるの?」と聞いても無視する。

中国の繁栄は一代限りである。

中国人は小金持ちになり、傲慢になった。

2.


むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。

悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。

あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。

幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。

しもべをことばだけで戒めることはできない。彼はそれがわかっても、反応がない。(箴言29・15-19)

「むちと叱責とは知恵を与える」

モンスターペアレントに「むちと叱責」なしで育てられると、子供は「知恵」がないまま育つ。

知恵とは、「こういうことをすると、絶対に不幸になる」という因果律の知識である。

わがままにさせた子は、知恵がないので、人生の中で失敗を繰り返してもなぜ失敗するかわからない。

「神の法を破れば、遠回りして自分が不利益を被る」という因果律をいつまでたっても、どんなに試練にあっても、悟らない。

神を恐れることを知らないので、結局、最終的に「おれは運が悪かった」「環境が悪かった」と周囲に八つ当たりし、反省しない。

「わがままにさせた子は、母に恥を見させる」

子供が周囲に迷惑をかける大人になったことによって、モンスターペアレントは恥をかく。

「悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。」

甘やかされた子は知恵がないので、悪人を見ると、それに影響を受ける。モンスターペアレントは、悪人を大量生産する。

知恵のある子は、「悪人は最終的には滅びるから近寄らないようにしよう」と判断する。

結局、神は悪を行う者を呪われるので、悪人は寿命が短く、変死も多く、絶対数は時間とともに減っていく。

しつけを厳しくした知恵のある子が最後に笑う。

「あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。」

子供を懲らしめることは、一時的には苦しいことである。

誰も自分の子供を悲しませたくない。

しかし、知恵のある人は、自分の心に鞭を打って、あえて厳しくする。

その苦しみは、後になって、自分を「安らかにし」、「心に喜びを与える」。

「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」

律法を捨てる人や民族は、放縦を許し、結局、無秩序を作り出しておのれを不自由にし、その結果不幸にする。

道徳に関しては、厳格さは自由を生み出す。

交通法規に違反した者を罰することがなければ、道路は危なくて運転できない。

人々が自由に振る舞うようになるからである。

スピードは出し放題。信号無視。四六時中渋滞・・・

アジアでよく見る光景である。

渋滞によって彼らの生活は非常に不自由になっている。

神の法すなわち倫理に関しては、不寛容。個性に関しては寛容。この原則を守れない社会や人は愚かである。

「しもべをことばだけで戒めることはできない。彼はそれがわかっても、反応がない。」

人間は刑罰が必要であり、それがあってこそ、まともになれる。

刑罰を回避した教育など、偽りである。

交通違反を言葉だけでやっても、違反者は減らない。

酒酔い運転で50万円罰金を科してはじめて違反者が減った。

刑罰が冷酷と連想されるような社会になったら日本もおしまいである。

 

 

2017年1月20日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net