オーバン・アヴェニュー神学は異端以外の何物でもない5


(1)

「信仰だけで救われるとなると、どんなに罪を犯しているクリスチャンでも救われるのか」という質問があるかもしれない。

これは、イエスであり、またノーである。

1.イエス

どんなに罪を犯しても、イエス・キリストによって神と和解するならば救われる。

悔い改めの気持ちを持ち、真剣に立ち返って、神に赦しを乞い、再出発するならば、神は契約の中に留めてくださる。

神に向かう姿勢があれば、そのような人には恵みが満ち溢れる。


罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5・20)

クリスチャンになると罪意識が深くなる。

罪が深く意識され、深い穴の中にますます落ちているように感じる。

しかし、深く落ちれば落ちるだけ、それだけ恵みも注がれ、赦しも深くなる。

だから、クリスチャンは、成長すればするほど、感謝の度合いは大きくなり、回数も増える。

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18・9-14)


2.ノー

「何をやっても救われるのだから、自由に罪を犯そう!」という人は、完全に滅びる。

なぜならば、その人にとって神は主ではないから。

罪を認識しつつ、しかも、それを悔い改めることなく続ける人にまで救いは提供されない。

救いの契約の中に入り、留まる条件は、「イエス・キリストを主と告白し、それを維持すること」である。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3・19-20)

「熱心になって、悔い改め」るならば、「ともに食事をする」、つまり、聖餐を共にする、つまり、契約を維持する。

悔い改めないならば、「聖餐を拒否する」、つまり、契約を維持しない。つまり、滅びる。

いわゆる流行の「無条件的救い」は嘘である。

「悔い改め」という条件なしでは救われない。

イエスを主と告白し、命令に服従し、それに失敗した場合には、熱心に悔い改めることなしには救われない。

聖書では、「神の法への違反」には赦しがあるが、「神の法そのものの拒絶」には赦しはない。

法を拒絶するということは、主権を拒絶することだから。

神とわれわれの契約は、主従契約である。

神はアブラハムと「信仰義認の契約」を結ばれた。

アブラハムには、その信仰が義とみなされた(ローマ4・9)

しかし、契約を結ぶ前に次のように命令された。

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。(創世記17・1-2)

「わたしの前を歩み、全き者であ」ること、つまり「神の前に完全になろうとすること」は、恵みの契約を結ぶための条件である。

だから、悔い改めは、契約の中に留まる条件である。

体の中で調和して働こうとする細胞は留まることができるが、不調和を故意に貫く癌細胞は、切除される。

(2)

それゆえ、非聖書的な教えをそれが非聖書的であると知りつつ伝えたり、信じたりすることは、赦されない罪である。

自分の通っている教会が行為義認を教えるならば、長老を通じて牧師を訴え、それでも聞かない場合は出るべきである。

そのような牧師を罷免しない長老会は、信徒を誤謬に導き、滅びに至らしめた責任を厳しく問われる。

われわれは、神のみ前に恐れおののかねばならない。

 

 

2014年4月17日



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