忍耐して待て


インターネットを見ると、いろんな人がいるなあ、と思うが、考えられないのは、教職者を平気で罵倒する人々。

サウルは完全に悪霊にとりつかれて気が狂ってしまい、ダビデの命を狙うようになったが、ダビデは絶対にサウルの命をとろうとはしなかった。

サウルが油注がれた王だったからだ。

「油注がれる」というのは、「神的権威を帯びた」と同義である。

油は聖霊を象徴する。

聖霊によって任命されたのであるから、神の権威がそこに伴う。

われわれが、車を運転して、誰かにとまるように指示されても、警察官でなければとまる必要はない。

警察官の場合はとまらないと大変なことになる。

なぜならば、警察官は国家という権威を帯びているからだ。

警察官個人はひ弱な存在であっても、彼が帯びている権威が強大であるから、われわれは彼によって逮捕され、拘留され、場合によっては殺されることもありえる。

権威とはこのようなものだ。

「イエスの名によって・・・」という言い方は、神の権威を呼び出すことを意味する。

警察官であれば、私服から制服に着替えて、警察手帳を持ったようなものだ。

私人から公人に変わる瞬間だ。

われわれが「イエスの名によって命じる。」といえば、それは神の権威によって命令を下すことを意味する。

牧師や宣教師などは、按手礼を受ける。

これは、教会の権威のもとで行われる「働き人として正式な任命」である。

その働き人は、教会の権威のもとで資格を与えられた。

教会は、神の代理者である。

教会は、この地上において、天国の鍵を握っている。

教会は、人を天国に送ることも、地獄に送ることもできる。

それは、霊的な権威だけではなく、地上的な権威も持っている。

教会は、神の言葉を教えることによって、神の命令によって世界を作り変える責任があるし、また権威もある。

だから、教会の正式な任命を受けた牧師や宣教師、教師などに対する反抗は、神に対する反抗であり、彼らに対する侮辱は神に対する侮辱になる。

もちろん、その教会が御言葉から外れていたり、その牧師たちが御言葉と無関係な生活や行動や教えに生きていたら無効だ。

しかし、彼らがしかるべきことを行い、神の御前に忠実に仕えている場合、彼らに対する攻撃は神に対する攻撃であり、神に対する宣戦布告である。

だから、そのような人々は、警官の制止命令を聞かずに逮捕される人と同じように、神からの直接の裁きを受ける。

神は、何度かの忠告をするが、あるときを境に、完全に悔い改めのチャンスを奪われる。

悔い改めのチャンスを奪われるとどういう現象が起きるかというと、頑固になる。

誰がなんと言おうと、突き進む。

牧師や教師や宣教師、教会に対する悪口をやめない。

はたから見ると精神病になったかのような症状を呈する。

これが「頑固にさせられる」という最終段階の状況である。

エジプトの王パロは、途中まで「パロが心をかたくなにしたので、パロは、モーセとその民を去らせず・・・」とあるが、あるときを境に、「神がパロの心をかたくなにしたので、・・・」と表現が変わる。

神があえて人の心を頑固にして、反省することができないようにされる。

それは、「刑罰をより厳しいものにするため」である。

心がやわらかい人は、まだ恵まれている。

しかし、心が硬くなって、忠告すればするほど逆上するようになれば、もはや誰も止められない。

裁きに向かってまっしぐらである。


もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。(ヘブル10・26-27)

聖書では、「知らないでやっている」のと、「知っていてやっているのと」を明確に区別している。

悪いことだと分かりながら、確信的に罪を犯し続けるならば、もはやイエスの十字架は無効である。

どんなにクリスチャンでございますといっても、十字架によるあがないは適用されない。

だから、地獄である。

永遠の地獄しか彼らには残っていない。

彼らは、ある時点から、地獄の火で永遠に焼かれるという運命を悟るようになる。

しかし、ときはすでに遅し。

その運命を理解したときには、コースを変更できない。

だから、「焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」のである。

こういった人々を生涯において待ち受けているのは、「死への恐怖」である。

死に対する恐怖におびえながら、自分がやらかした赦されない罪の結果をただひたすら待つしか残されていない。

牧師や伝道師らは、彼らに対しては何もしない。

攻撃すらしない。

なぜならば、こちらが攻撃すると、神の攻撃が停止されるから。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12・19)

あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。
主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。(箴言24・17-18)

自分で復讐したり、相手の滅亡を喜んではならない。

あくまでも淡々と神の裁きを待つべきだ。

いや、むしろ相手のために祈るべきだ。

あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。(ローマ12・14)

牧師や教師は、神の国と義のために働くときに「ありもしないことで悪口雑言を言われる」。

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。(マタイ5・11)

なぜならば、サタンは自分の国が縮小し、滅ぶことに抵抗しているからだ。

牧師や宣教師や教師が、働くときに、神の国は拡大している。

そして、サタンの国は縮小している。

そのため、サタンは、この働きを妨害するために、傀儡を送ってくる。

その傀儡は、「ありもしないことで悪口雑言」を言う。

自分がまったく関係のないことで非難されても驚くな。

それは、「宣教活動につきもの」である。

かえって喜べ。

なぜならば、報いが大きいからだ。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5・12)

信仰がないと、この世の手段で反撃するようになる。

信仰を身につけなさい。

忍耐して待っていれば、神の裁きがいかに現実的であるか見ることになるだろう。

 

 

2011年2月25日

 

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