「地を従えよ」の命令にどれだけ忠実になれるかが、永遠の運命を決定する


1.

どうやら加齢に伴って起きる座骨神経痛のようです。

とにかく座ってしばらくすると、腰から足にかけて激痛が走るので、寝たきりの状態が続いていました。

お祈りのおかげで、症状が緩和されました。とくに祈りの労を払ってくださった方には感謝いたします。

コルセット的なものを着用した結果、長い時間画面と向き合っても疼痛が起こらないようになりました。

続けてお祈りを賜れば感謝です。

2.

さて、最近、支援者が増えていることを主に感謝いたします。

いよいよ、クリスチャンによる世界支配の時代が始まったのかもしれません。

私たちは、主に格別に愛され、期待されているグループであるとお考えください。

なぜならば、この歴史始まって以来、この「クリスチャンによる世界支配」の教えは「明確には」宣べ伝えられてこなかったからです。

キリスト教の教職者や伝道者たちは、周辺のことしか教えてきませんでした。

一番核となる教えには触れてきませんでした。

概ね、西洋のキリスト教は、霊肉二元論に毒され「地上に関わるな」と考える傾向があります。

初代教会のころから、タルムードユダヤ人たちは、グノーシス主義を通じて教会にこの教えを吹き込んできました。

霊肉二元論の影響を受けにくいユダヤ人たちは、霊も肉もどちらも支配しようとします。

聖書によって訓練されてきたからです。

あるアメリカ系ユダヤ人夫婦の家に呼ばれて会食を持っていたころ、私の再建主義の説明に対して「ユダヤ人の考え方と似ている」と言いました。

再建主義は、霊肉二元論を捨て、「地上を神の国に変える」という考え方をします。

そのために、これまでタルムードユダヤ人の傀儡として異邦人ノンクリスチャンたちがやってきた政治や経済、芸術・・・地上のあらゆる領域を、彼らの手から取り戻すことを目指します。

3.

これがどれほど霊的に重要であるか考えてみてください。

これまでクリスチャンは、サタンに対して「不戦勝で負けてきた」のです。

戦えば勝てるのに!!!

サタンはすでに縛られています。

そのように言うと「現在の世界を見て、サタンが縛られているなんて信じられない」という人がいるかもしれません。

しかし、黙示録20章1〜2節の「御使いによるサタンの縛り」に使われている「縛った」の原語εδησενは、ストロングによると、「手足を動けないように縛る」という意味だけではなく「put in chains(鎖につなぐ)」という意味もあります。

https://biblehub.com/greek/1210.htm

そこでは、たとえとして次が挙げられています。


an animal, to prevent it from straying around
動物(を縛る)。動物がうろつかないように。

つまり、サタンは、鎖につながれた犬のように、ある程度の活動が許されている状態として描かれています。

ですから、「千年王国は、サタンが身動きが取れないように縛られて何もできない時期だ」と考える必要はありません。

それゆえ、私たちは「今が千年王国だ」と考える聖書的な根拠があります。

私たちの戦いは、鎖で拘束されている敵との戦いです。

4.

さらに言えば、サタンはすでに武装解除され、さらし者にされています。

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2・15)

ここで「加えられました」と過去形で訳されています。

原文を直訳すると次のようになります。

απεκδυσαμενοs ταs αρχαs και ταs εξουσιαs εδειγματισεν εν παρρησια θριαμβευσαs αυτουs εν αυτω

[And] having spoiled principalities and powers, he made a shew of them openly, triumphing over them in it.(KJV)

(神は)統治者たちや権威者たちを武装解除し、彼[キリスト]にあってに勝利し、さらし者にされた。(*)

ここで「さらし者にされた」にあたるεδειγματισενはアオリスト動詞直説法ですが、これは通常「過去の動作について総括的にまた完結した出来事として述べ」ます。(Wikipedia―アオリスト)

したがってこの文全体は「神はすでに敵に勝利し、武装解除し、さらし者にされている」と解釈できます。

5.

キリストは天地の一切の主権を持っておられ、しかも、聖霊が助け主として私たちに使わされています。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・18-20)

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。(ヨハネ14・16)

天地の主権者のもとに、神の御霊の助けがある戦いがどうして敗北に終わるでしょうか。

6.

神は私たちに「地を従えよ」と命じておられます。世界を神の御心のままに変えるのです。

この活動には勝利が約束されています。

7.

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(ルカ16・10-12)

私たちが生涯において所有するものはすべて「他人のもの」です。

職場も家族も自分の命すらも「他人のもの」です。つまり、神のものです。

神は「他人のもの」をどう取り扱うかによって、どれだけ「自分のもの」を与えるかを決定されます。

つまり、来世の運命は、現世における資産管理によって決定されるのです。

現世のものは「小さい事」であり、来世のものは「大きい事」です。

今私たちが所有しているものは、来世における所有のミニチュア版でしかない。

現世はすぐに終わってしまいますが、来世は永遠に続きます。

私たちは存在のほとんどの期間を来世において過ごします。

来世でどのような生活をしたいかを考えず、現世の利益のみを追求するのは、愚かの極みと言わねばなりません。

「地を従えよ」の命令にどれだけ忠実かが、私たちの永遠の運命を決定します。


(*)

新改訳の「すべての支配と権威」は明らかに誤訳であり「すべての」に当たる言葉が原文にはありません。

ただ、20節の「キリストはすべての支配と権威のかしらです」を受けていると考えるならば、あながち間違いとは言えませんが。

もっとも、このような追加は、私はできません。

原文にもともとないものを付け加えることは、非常に危険で、いのちの書から名前を消される恐れすらあるので。

シンタクス(構造)的にも問題があります。

「彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」は、明らかに「意訳」で、原文の意図はおおむね正しく伝えていますが、構造的には乖離があります。

私は「聖書は原文の構造を損なわずに、できるだけ分詞は「修飾節」として訳し、述語は述語として訳すべきだ」と考えます。実際、英語訳は忠実に訳されています。

ここでは主語は13節の「神は」。(13節には神という言葉は出てきませんが。)

述語は「さらし者にされた」。

そこに分詞が副詞節として「彼[キリスト]にあって統治者や権威に勝利し」と「彼らを武装解除し」が修飾しています。

ですから「捕虜として凱旋の行列に加えられました」という訳はかなり原文の構造から離れています。

原文には「凱旋の行列」という言葉も「加えられた」という言葉もありません。

 

 

2018年10月23日



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