絶望からの解放
ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
それから、彼に次のような主のことばがあった。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。
しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
すると、彼に次のような主のことばがあった。
「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(1列王記17・1-16)
この世に生まれてきた人は、次の3つしか選択肢はない。
(1)奴隷
(2)奴隷使い
(3)クリスチャン
クリスチャンにならない限り、奴隷になるか、奴隷使いになる以外にはない。
懸命に努力しておカネを稼いでも、様々な税金でもっていかれ、どんな財閥でも3代経つと一文無しになる。
「まじめに生きる」ことを信条として誠実に生きても、結局その果実は誰かの手の中に入る。
頭のいい人はこの現実を見て「搾取する側に回ればいい」と考え、政治家や官僚、権力者、または、その取り巻きを目指す。
つまり、奴隷主のために看守役に回ろうとする。
世界権力者のグループに入ると、様々な優遇を受ける。税金を取られないような方法を伝授され、パナマやケイマン、スイスの銀行に預金を許される。
しかし、彼らも悪魔のエージェントなので、生涯にわたって様々な呪いを受け、最終的には悪魔に全部もっていかれる。
ロックフェラー家の女性が「ひどいことばかり起きる」と嘆いていたのを思い出す。変死が多いのである。
ロスチャイルド家では自殺者が多いと聞く。
臨終の際に悪魔が現れて「この世をわたしの国に変える計画のために働いてくれてありがとう。じゃあな。」と言って地獄に蹴り落とされる。
みな誤解している。
エデンの園においてアダムとエバがサタンの甘言に乗って堕落してから、人類はサタンの奴隷になった!
どう転んでもサタンの手の中にいる。そこから逃げ出すことはできない。
小さく短い栄光を見せられ、味わうことを許されて「われわれは奴隷なんかじゃない」と考えている人は、近視眼なのである。
いくら富や権力を得ても、常に心配と不安にさいなまれ、呪いを受け、最後に大きな破滅が待っているのだから。
エデンの園における問題こそが、人類の問題の根源にある。
アダム族という奴隷の血筋から解放されない限り、解決はまったくない。
イエス・キリストは、人類を解放するために、新しい血族を創始された。
キリスト族は、キリストがエデンの園の誘惑に打ち勝ってくださったおかげで、全世界を支配する権利を与えられた。
キリスト族に属する人は誰でも、王である。
奴隷ではない。
「まじめに生きても全部税金で持って行かれる」ような立場にはない。
「どうせ持って行かれるなら、持って行く側に回ろう」と立場を切り替える必要もない。
信仰を持ってクリスチャンになれば、誰でも、悪魔の手から解放され、悪魔のために働かなくてもよくなる。
なぜならば、富と力の源泉がサタンにはなく、神にあるから。
生まれながらの人間は、サタンから富や力を得る必要がある。
そのため、どうやってもサタンにお願いする以外に生き残ることはできない。
しかし、クリスチャンは、神から富や力を得ることができるので、サタンにお願いする必要がない。
イザベルの預言者と対決したエリヤのところには、「幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た」。
川の水を飲んだが、日照りで涸れたので、神の指示により、餓死寸前の子連れの未亡人のもとに身を寄せた。
彼女は「かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油がある。それを調理して食べて死のうとしている」と言った。
しかし、エリヤにそれを差し出して助けると、壺の中の小麦粉は尽きることがなくなった。
創造者である神が、新しい小麦粉と油を造ってくださったのである。
神は全能であるから、われわれは生活に困ることはない。
サタンを跪拝する必要がない。
アダム族に留まる限り、サタンの奴隷であり、それゆえ人生には絶望しかない。絶望しない人は単に錯覚しているだけである。
キリスト族に所属を変えて、自由にならなければ、生まれてきた意味がない。
キリスト族になれば、正当な方法で富と権力を得ることができる。
奴隷の看守役をする必要がなく、それゆえ、後ろめたい生活を送る必要もない。
むしろ、そのような悪魔の王国を破壊し、人々を解放する生き方ができる。
イエス・キリストを信じて、所属を変えよう。
2019年4月30日
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