第24章 死としての法 by R・J・ラッシュドゥーニー
クリスチャンにとって、神の法は自由である。例えば、神の法は泥棒や殺人者の不法な行いから自分を守ってくれる。しかし犯罪者にとって、神の法は最低でも自由の制限であり、場合によっては自らを死に引き渡す恐れのあるものである。
神の法をどう見るかによって、その人の本質は明らかになる。例えば、レビ記20章10節では、姦淫罪に対して死刑が設定されている。姦淫を犯した男も女も、どちらも死刑に処せられる。レビ記20章13節では、同性愛に対して死刑が設定されている。長年にわたって、多くの人が私に次のように尋ねてきた。「あなたは本当にそれを信じてるんですか?」と 。神がそう言われた以上、私はそれを、優れた社会を築くための命令として受け入れている。ノンクリスチャン、クリスチャンを問わず、あまりにも多くの人々が、このような命令の故に神に対して激しい敵意を抱いている。また、このような法を信じている私に対しても激しい怒りを抱いている。なぜだろう。彼らはこれらの罪が好きなのであろうか。そしてその罪を選択する自由が欲しいのであろうか。彼らは不道徳な生活様式も道徳的なそれも等しく有効であると考えたいのであろうか。または、彼らが望む神とは、単なる観察者もしくはインスパイアする者であって、法制定者や裁判官ではないのか。
クリスチャンにとって、神の法は自由である。それは、クリスチャンを悪人や犯罪者から守ってくれる。彼らの生活や所有物は、神の法が尊重される場所においては安全に守られるが、神の法が軽んじられる場所においては危険にさらされる。
ノンクリスチャンにとって、神の法は、肉体的死および永遠的死の宣告である。死とは、神からの隔離であり、神の御性質を表現する神の法からの隔離である。
聖書全体にわたって、神のご性質は完全なる正義、完璧なる義である。神の法はその正義と義の表明である。それゆえ、ノンクリスチャンが神の法を憎むのも至極当然のことなのである。彼らは、口で何を言おうが、神の法を自らへの死刑宣告とみなしているのである。
ある人が神に関してどのような意見を持っているかを知るには、その人の神の法に関する見解を知ることである。自分にとって不快な性質を神がお持ちの場合、それを聖書から取り除いたり、または再解釈しているならば、その人は生ける神を排除し、み言葉とそのご性質から偽の神を作り出しているのである。偶像礼拝をするには、物質的素材は不要である。偶像礼拝において必要なのは、思想と、聖書のテキストだけである。
われわれにとって神の法は自由にも、死にもなりえるのである。
(R.J.Rushdoony, Institutes of Biblical Law, vol.3, p.59)
2016年10月21日
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