ほぼ毎日7キロメートルを歩きながら、祈っている。
つい先日祈りながら、ある新興宗教が自滅するようにと名指しで祈ったところ、教祖がとんでもないことを言い出して自ら墓穴を掘った。
ここ数日、ある方の息子さんをサタンから解放してくださいと祈っていたら、問題から解放された。
イルミナティ・フリーメイソンの滅亡、中共、人民解放軍、反日韓国、その他の崩壊を祈っている。
「御心が天で行われるように、中国大陸でも行われますように」といつも祈っている。
このような祈りが徐々に積り、ある極点に達すると、奇跡が起きる。
神殿において祭司は香をたいた。
その煙が神殿から天に上る。
天において神がその香りをかがれると、神は行動を開始される。
また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。…(黙示録8・3-5)
「香炉」から出る「香の煙」が「神の御前に立ち上」ると、御使いが地に裁きを開始する。
祈りは、煙で表現される。
われわれの祈りは、天に上る煙である。
裁きは、煙を発した「その香炉」を使って行われる。すなわち、「御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけ」る。
これは、裁きが、祈りの答えとして起きることを表現している。
祭壇の火とは、全焼のいけにえを焼いた火である。
つまり、イエス・キリストを犠牲するために用いられる火である。
われわれの祈りが答えられる根拠は、イエス・キリストの身代わりの死である。
イエス・キリストの身代わりの死は、クリスチャンを贖うためでもあるが、同時に、クリスチャンを迫害する者への攻撃の道具ともなる。
香炉の火はもともと煙を発するためであり、その火力は微々たるものである。
しかし、イエス・キリストの犠牲の火で満たされると香炉は敵を焼き殺す爆弾に変わる。
まとめると、
「香炉で香をたく」(=祈る)→「煙が神の御前に立ち上る」(=祈りが神に届く)→「その香炉に祭壇の火を満たす」(=キリストの犠牲が裁きの道具として用いられる)→「地に投げつける」(=祈りは迫害者を焼き殺す武器になる)
祈りは殺傷力のある武器なのである。
ノンクリスチャンの祈りにはパワーはない。
なぜならば、祭壇の火で満たされないから。
香炉を投げつけても、お線香の火のレベルの火力なので、殺傷力がない。
クリスチャンの祈りにはパワーがある。
なぜならば、祭壇の火で満たされて「燃える香炉」と化すからである。
投げつけるのは、われわれではない。
御使いである。
だから、確実に敵に当たる。
われわれに裁きを祈られる人は不運である。
燃える香炉なる爆弾が、脳天を直撃するからである。
いつもノンクリスチャンに対してやっている中傷や人格攻撃、迫害、意地悪をクリスチャンに対してやってはならない。
クリスチャンが反撃の祈りを開始すると、それは、自分を確実に破壊するからである。