故意の違反には贖いはない


「所属教会に十分の一献金しないクリスチャンは救いから漏れる」というと、「行為義認」に思うかもしれないので言いますが、

聖書では「意図的な執拗な確信的不服従は許されない」という原則があります。

「過失」とか「弱さ」には十字架は適用されますが、「判っていて」とか「挑戦して」というような罪には贖いはありません。

だから、故意の律法違反に対しては、地獄以外の何者も待っていない。


だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。(ヘブル10・28)

これに対してディスペンセーション主義者は、「え〜、これは、旧約時代だったからでしょう。新約時代にはこんな厳しくないでしょう」という。

旧約と新約の経綸の違いが「厳しさ」にあるという証拠を提示してほしい。

「いや、厳しさではなく、旧約は物質的、新約は霊的な時代だからですよ。新約時代において物質的に神にお返しをする必要はない」と??

どこに「旧約新約の経綸の区別は霊的・物質的だ」と記されていますか?

じゃあ、新約時代だから、今は「からだの復活」は不要なのでしょうか。

霊的に復活すればよいのであって、からだの復活は不要だと?

もう立派な異端です。

聖書の主張では、旧新約両方において、神の民は、「神の法を絶対的に遵守する責任を負っている」のです。

ただし、それができないから、「弱さのゆえに罪を犯す人のために犠牲が用意されていた」。

それが旧約時代は動物犠牲、新約時代は十字架です。

神の法に対するあらゆる無視、意図的な違反、挑戦に対しては、永遠の刑罰という報いが来ます。

放蕩息子とユダの違いは、「身を低くして神のもとに帰ったかどうか」です。それだけ。

どちらも裏切り者でした。

前者は、立ち返った。後者は、最後まで立ち返らなかった。

立ち返るということは、「神の法秩序の中に復帰する」ことであって、口先で「悔い改めます」ということではない。

故意に違反するならばもう一度追い出されます。

収入の十分の一は神のものであり、それを自分で使うことは着服、横領になります。

しかもそれは人間に対する罪ではなく、神に対する直接的な罪なので非常に重い。

ネブカデネザルの息子ベルシャツァルは、神殿の金の杯で酒を飲んだ。

それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。
・・・
その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。(ダニエル5・23、30-31)

神の取り分に手をつけるなど、神殿の器で酒を飲むのに等しい。

だから、その刑罰は必ずやってくる。

意図的な罪に対しては、このように神は厳しく報われる。

"Jesus loves You"なるステッカーを貼って洗脳された「ヒューマニズムキリスト派」の教えでは、神の法に対する違反など無視できる。

しかし、聖書はそのようには述べていない。

 

 

2011年5月20日

 

 ホーム

ツイート

 





millnm@path.ne.jp