日本人の思考の特質は「周りの人間がどう思うか」「世間がどう評価するか」である。
この根本には、「自分の運命を決定するのは周りの人間である」という間違った考え方がある。
しかし、聖書は、「われわれの運命を決定するのは神である」と述べている。
主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。(箴言16・7)
自分が神の御前に正しい行いをすれば、敵と和解できる。
この世界は、契約的に動いている。
われわれが違法行為を行えば、日本国の法律にしたがって罰せられる。
なぜならば、日本国の領土の範囲内では、日本国政府が統治しているから。
われわれは、不可避的に契約の中にいる。
契約主は、日本国という権力である。
われわれは、日本国と契約を結んでいる。
だから、われわれの運命は、日本国政府に握られている。
法律が変わって、われわれがそれまで行っていた行為が違法と定義されれば、その行為は処罰の対象となる。
「周囲の人々の目」を気にする行為は、「周囲の人々」と契約を結ぶことを意味する。
つまり、「周囲の人々は契約主である」と告白するようなものだ。
そのとき、われわれは神を捨てる。
神を契約主と見ていないからである。
周囲の人々の目を神以上に重んじるならば、われわれは、「周囲の人々は私の神です」と告白することになる。
だから、世間体にこだわる人は、偶像礼拝者である。
対人恐怖は、偶像礼拝が原因で起こる精神疾患である。
クリスチャンは、神との間に契約を結んでいるので、周囲の人とか世間体に動かされない。
契約の刑罰は、もっぱら神から来ると信じている。
われわれが周囲の人々、上司、権力を恐れる場合、それは契約主としてではなく、神の代理者としてである。
「神がこれらの人々を恐れるように命令されたから」われわれは自分の上の権威を恐れるべきである。
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。(1ペテロ2・13-14)
われわれは、周囲の人々や権力、国家を無視してよいというわけではない。
傍若無人に振る舞うことは禁止されている。
愛は隣人に対して害を与えません。(ローマ13・10)
われわれは、契約主としての神に従うがゆえに、人々に従う。
同じ「周囲の目を気にする」という行動であるが、「神を契約主として行う」のと「人々を契約主として行う」のとは、まったく違う。
対人恐怖を解決する最良の方法は、契約主を変えることである。
神を徹底して恐れるならば、人間への恐れはなくなる。
人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29・25)