弁証法的思考を捨てるべきだ


(1)

バベルの塔は、上に行くほど狭くなる。

啓蒙主義以降の思想、とくに、ヘーゲルの弁証法は、このようなバベルの塔の形になっている。

対立する二つの要素が止揚される過程を無限に繰り返し、絶対精神は発展する。

この弁証法をイルミナティが利用している。

革命を起こす場合には、革命側に資金を提供するのはもちろんだが、反革命側にも資金を提供する。

互いに対立させ、その対立を解消する過程でさらに高い段階に導く。

だから、資本主義と共産主義の対立が共産主義国が崩壊した1989年〜1991年で終わったと考えるのは間違い。

あれは、資本主義側が勝ったのではない。

資本主義側も共産主義側も変化して別の形に融合されたのだ。

クリスチャンでも、弁証法の考え方をする人々がいるが非常に危険である。

「ボルトは足が速い」という命題があれば、記録や実績に基づいてそれが証明された場合、「ボルトは足が遅い」という対立する命題は退けられなければならない。

弁証法を採用すると、その二つに結着はつけられないと考える。

「ボルトは足が速いともいえるし、足が遅いともいえる」というような、実に非論理的な結論を出してもいいことになる。

こういうあいまいな思考をするならば、教義に基づいて人や教団などを批判することができなくなる。

それは、すなわち、異端の侵入を許すことになる。

「イエスは神ともいえるし、神ではないともいえる」のような。

われわれは「イエスは神である。だから、イエスは神ではないというエホバの証人は異端である」と断定しなければならない。

弁証法によって崩された思考法が流行する現代において、こういう異端断定は人気がない。

傲慢だと判断される。

「前千年王国説も無千年王国論者も後千年王国説もどれが正しいかなんて詮索すべきではない」のような「あいまいを寛容と誤解する」人々が多い。

しかし、前千年王国説や無千年王国論者を信じれば、多くの聖書の主張と矛盾する。

われわれは、ものごとの真偽をつけ、善悪を分ける責任がある。

フランシス・シェーファーは、ヘーゲル弁証法を「絶望の境界線」と呼んだ。

ヘーゲル以降、それに基づいて始まったロマン主義は一時期、学界を席巻したが、実証性よりもドグマが優先されるので、学問的に絶望が生じる。

結局、実証主義側から激しい批判を受けるようになった。



マルクス主義は、ヘーゲル主義の一種であり、弁証法を基本とする。

しかし、マルクスの議論にある様々な前提、たとえば、貧富の差がなくみなが平等で持ち物を分け合って生活した原始共産制なるものが実在したかどうか史料から確認できない。

原始共産制から資本主義、社会主義、そして、共産主義社会への発展が本当に起きるかどうか、ソ連や中国を見ると、この発展段階にしたがって歴史が推移していないことは明らかだ。

つまり、マルクスの思想、そして、それを基礎づけたヘーゲルの思想は「宗教教義」のようなもの、ドグマでしかないものであったということである。

それは、けっして経験科学ではなく、一種の世界観、宗教である。

それゆえ、弁証法は、聖書的キリスト教の思考法に対するライバルであったと見るべきである。


そういうわけですから、この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間的な計画であって、私にとっては、「しかり、しかり」は同時に、「否、否」なのでしょうか。
しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり」と言って、同時に「否」と言うようなものではありません。
私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。(2コリント1・17-19)

弁証法の侵入を許すと、「キリストとベリアルに何の調和があるのでしょう」という御言葉に反するようになる。

「キリストだけを受け入れ、ベリアルを退けよ、なんて傲慢なことを言わずに、ベリアルも一部受け入れよう」というような相対主義に陥るようになる。

(2)

ディスペンセーショナリズムは、弁証法的である。

神は、歴史を各時代に分けられ、それぞれにおいて、固有の取り扱いの方法を取られた、とする。

モーセ以降の時代は、律法を与えて民をテストしたが、失敗した。それゆえ、イエス・キリスト以降は律法ではなく、恵みによって民を扱われた。

今は教会時代なので、王国の時代ではない。だから、今の時代においてイエス・キリストの王国は実現しない。

時代とともに神の取り扱いの方法が変化、発展すると。

ディスペンセーショナリズムが作られた18世紀後半から19世紀前半は、ちょうどヘーゲル弁証論の全盛期だ。

進化論もこのような思想の背景のもとで編み出された。

生存競争という対立を通じて、さらに高い段階に生物が進化して、今日のようになったと。

ヘーゲルもマルクスもダーウィンも、バベルの塔の人々、つまり、イルミナティ・フリーメイソンの啓蒙主義の影響を受けて、キリスト教以外の世界観を作る過程で生まれたものだ。

神のライバルになろうとする上昇の努力の中で形成された思想であることを理解しよう。

これらは、けっしてキリスト教とは和解できない。

きっぱりと捨てることである。

 

 

2013年11月9日



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