聖書的キリスト教に帰るならば神に対するなれなれしさは消えるだろう
アメリカにいって、向こうのクリスチャンに会って感じた違和感の一つに「神に対するなれなれしさ」がある。
「イエスは友だち」とか「イエスはあなたを愛している」とかステッカーとして車などに貼ってあって、冒涜に感じた。
こういうイエス理解は、聖書をよく読んでおらず、自分の想像で神の像を作り上げているからだ。
律法において、神は幕屋にあるあらゆるものに血を振りかけて聖めることを命じた。
契約の箱すらも聖めなければならなかった。
もっとも聖い場所である至聖所にあり、その中でももっとも聖い契約の箱ですら、血の聖めを必要とした。
これは何を意味するのか。
被造物で堕落していないものは一つもないということだ。
そのままで神に受け入れられるものは一つもない。
すべてが堕落した。
すべてが、神の目に穢れている。
新約時代になり、イエス・キリストが十字架につかれ、万物の贖いをなされた。
だから、現在、全世界は聖められており、物そのもので穢れているものは一つもない。
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)
2010年9月18日
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