1.
自分の絶対に治らないと思われた病気が祈っているうちに治った。
もちろん、薬も利用したが。
薬だけだと治らなかっただろう。
イエスのもとに来た人々は、信仰によって癒された。
すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。
その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。
しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈り{と断食}によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコ9・17-29)
疑わなければ、信仰は力を発揮する。
いかに疑いをゼロにできるか、それによってわれわれの成功の度合いも変化する。
2.
神の国は長期的には上下運動をする。
なぜならば、不信仰な世代が現れる恐れがあるから。
18-20世紀はそのような世代の時代である。
18世紀にカントが登場し、神を追い出した世界観が作られた。つまり、ヒューマニズムである。
これに基づいて様々な悪魔的な教えが登場した。中でももっとも強力なのは共産主義であった。
マルクスの共産主義は20世紀初頭から中盤にかけてそれを実践するものが現れた。
レーニン、スターリン、毛沢東である。
世界は共産主義者の謀略に巻き込まれて地獄を体験した。
クリスチャンは、カントの認識論を採用し、聖書信仰から離れた。
最終権威として人間理性を置いた。
「なんでも科学的に証明されないと受け入れない」というようになった。
神の言葉ですら、人間の最終チェックのもとに置かれた。
クリスチャンは進化論を信じ、創世記の創造を神話とみなすようになった。
信仰がガタガタになった。
神がこのような不信仰な時代の到来を許容された。
そのため、ダウンの時代が数百年続いた。
これからはアップの時代である。
地球の温度変化についても、長期的に高くなる気温でも、短期的に見れば細かな上下運動がある。
それと同じように、神の国も長期的に拡大するのだが、短期的に大きく減退することがある。
短期的に減退するのは、「調整のため」である。
神が弱くなったからではない。
たとえば、ドル円にも調整期がある。円が売られ過ぎると調整を取るために買われる時期がくる。
この調整期においてわれわれが陥りやすいのは「世界は悪魔によって牛耳られているのではないか」との疑いである。
悪魔はこの時期を利用して、クリスチャンの信仰を破壊しようとする。
クリスチャンはディスペンセーショナリズムに騙されて「世界の終わりがやってきた」と信じた。
調整期におけるわれわれの義務は、「これは一時的だ」と信じることである。
嵐の中で必死に屋根が飛ばないように頑張っているようなものである。
神は調整期において、様々な悪魔の活動を暴露される。
調整期がなければ、悪魔の正体、そして、人間の中にある悪魔性は明らかにならない。
調整期のおかげで、共産主義を通じ、人間が神を排除した「人間王国」を求める堕落した存在であることが暴露された。
学校の教科書では、啓蒙主義やフランス革命、ロシア革命などが人類の希望として描かれている。
キリスト教は反動的な存在として描かれている。
事実はまったく逆である。
キリスト教文明のもとで近代科学が発達し、市民的権利が拡大し、世界は発展してきた。
なんだかんだ言っても、キリスト教が入る前の世界は奴隷制である。
戦争で負ければ、奴隷にされる。
(ちなみに、イエズス会率いるローマ・カトリックはタルムードユダヤ教であってキリスト教ではない。)
われわれは、将来において不信仰な世代が登場する時代がくるかもしれないが、それで「悪魔が世界を牛耳っている」などと考えないようにしよう。
それは「純化」の過程なのである。
不純物を除く過程である。
だから、世界は坩堝の中に投げ込まれる。
クリスチャンはその歴史を見て「神の勝利の計画」を読み取る。
3.
われわれの側では次の認識が必要である。
(1)世界は最終的に神の国になる。
(2)細かな過程では上下変動があり、ダウンする時期があるが、それは調整期であり、さらなる発展の土台である。
(3)われわれの日常における個別の案件については、成功の度合いは「疑いをゼロにできるかどうか」にかかっている。
神の国の成長の直線は、その細部においてはアップダウンの積み重ねである。
ダウンについては、それを永続的なものと考えないようにすべきである。