われわれが今行っていることは、神の計画に基づくものである。
たとえば、ある会社で仕事をする。
これは、自分がその会社に入って仕事をするようにと定められた神の決定に基づくので「しっくりくる」のだ。
しっくりこないのであれば、転職が御心かもしれない。
創造的仕事をする人々、音楽家や芸術家などは、自分の内側からあふれてくるものを表現する。
仕事でいやいややっているのではなく、自分の内側にあるものを必然的に形にしている。
それをしなければ人生に意味がなくなるような脅威を感じながら表現活動をする。
会社で営業をする人々、ものを生産する人々、教会の牧師、大学や学校の先生、家庭の主婦…
すべての職業において、仕事とは、内側にあるものの必然的な表現である。
預言者エレミヤは、このことを次のように表現した。
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20・9)
預言者として召された人は、神の言葉を取り次ぐ仕事を必然として行う。
それをしないという選択が不可能なのである。
それをしなければ、いてもたってもいられなくなる。
私の場合、再建主義について学び、蓄える時期が1987年から2000年頃まで続いた。
かなりの量の本を読んだ。
精読した本は、R・J・ラッシュドゥーニーのThe Institute of Biblical Law(『聖書法綱要』)とヘルマン・ドーイウェールトのThe Christian Philosophy and the Meaning of History、コルネリウス・ヴァン・ティルのThe Defence of the Faithである。
これらの3冊はボロボロである。無数の書き込みがしてある。
自分の頭の中で整理するために書き込みをする。本の体裁とかどうでもいい。ヴァン・ティルの本は表紙がとれたのでガムテープとホチキスで留めてある。
自分がそれを学ぶように強くひきつけられているときに、その本の一文一文は自分にとって宝石のように思える。
これは神の予定だと思う。
神がその本から学ぶように自分を導いておられるから、そのように感じるのだ。
われわれは器に過ぎない。
神がわれわれを選び、ある仕事をさせるために生まれさせ、そして、それを行わせるためにあらゆる環境を整備される。
それを行うための準備の時期に、神は、われわれをそれに強烈に惹きつけられるようにし、自分が仕事をする時期に備えて訓練をされる。
自分の使命の時期がきたら、神はそれを実行するためのすべての道具や資金、人材を提供される。
神は、自分によって影響を受ける人を起こされ、その人々に仕事を継承させる。
全部、神の計画なのだ。
共産主義がさかんだった60年代、なぜか共産主義者には魅力的な人々が多かった。
学生時代、会話して面白いのは学生運動をしている左翼の連中だった。
勉強だけしているノンポリはつまらなかった。
レーニン、ホーチミン、カストロ、ゲバラ、…
どこか人間的な魅力がある。
それに対して、自由主義陣営は、人材不足だった。
人々は、レーニンやホーチミンの人間臭さに惹かれた。
そういう時代だからだ。神が共産主義の進展を許可された時代だからだ。
ビートルズの音楽、それに続くニューロック。
背筋がぞくぞくするような魅力にあふれていた。
中高時代、私は、次々と現れるロックヒーローに幻惑された。
なぜあれだけの才能が集中して登場したのか。
なぜポール・マッカートニーとジョン・レノンという大衆音楽史上類を見ない天才が、同じリバプールという町の同じ年代に生まれ、出会ったのか。
時代が大きく動くのを神が許されたからだ。
ビートルズとその後のロックヒーローによって60年代、70年代の間に、世界は大きく変わった。
どのように変わったかというと、ニューエイジというロスチャイルドの運動が世界を支配し、キリスト教を追い出したということだ。
キリスト教文明は徹底的に破壊された。
それで、60年代以前に戻ることができるのか。
非常に難しい。
しかし、神が許されたのだから、解決はあるだろう。
あの時代が存在したということには、神の御心のうちに何らかの計画があるに違いない。
神は、社会を動かし、歴史を動かすために人を用意される。
人々は「自分がそれをやっている。神など関係ない」と思っているだろうが、実のところ、すべては神の御ぜん立ての上に成り立っているのだ。
御心のときに、御心の活動ならば、われわれはその仕事に没頭する。
手塚治虫は、内側から出てくる無数のアイデアを抑えることができなかった。
神は、クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、すべての人を御心にしたがって召し、それぞれの活動をさせ、計画を遂行される。