新約時代において、クリスチャンは律法から解放された?


私が所属していた教会において、T牧師が1990年に再建主義の主張を教会側に提出した。

その中において、次の文章が含まれていた。

http://www.millnm.net/millnm/adult.html

これは、T牧師の依頼で私が翻訳したものである。

石打刑に処せられそうになった女を助けたイエスの話をめぐるグレッグ・バーンセンの主張である。

この文章に関して私が大学の先輩でこの問題にもからんでいた人に「もし告発者が同罪を犯しておらず、告発の要件が整えばイエスは賛同しただろう」と言ったところ、「イエスがそんなことに同意するはずはない」と言下に否定された。

つまり、「イエスは律法の規定を遵守しようとする人々に反対しただろう」と。

ここに福音派の本質「無律法主義」が現れている。

姦淫者への処刑については、主に3つの要件がある。

1.告発者が同罪を犯していないこと。

2.被害者である配偶者が処刑に同意していること。

3.証人である告発者がまず石を投げること。

イエスが女を助けた根拠は1であった。

イエスは、告発者が同じ罪を犯していることを見抜いておられた。

それゆえ「まず罪のない者から石を投げよ」と言われたのである。

身に覚えがあった者が一人去り、二人去りして、誰もいなくなった。

女一人が残ったが、イエスは「わたしはあなたを罪に定めない」と言われた。

では、この3つの要件が満たされていた場合、イエスは石打に賛同されたのだろうか。

私は、イエスと答える。

なぜか。

この律法の制定者はイエスご自身だからである。

旧約律法を定められたのは、神であるイエスご自身である。


神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」(出エジプト記3・14)

十戒は、この「わたしはある」というお方によって定められた。

それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
・・・
姦淫してはならない。
(出エジプト記20・1-3,14)

この「わたしはある」のギリシャ語訳は「エゴー・エイミ」であり、イエスはご自身がエゴー・エイミであると言われた。

「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる(エゴー・エイミ)のです」(ヨハネ8・58)

それゆえ、「姦淫してはならない」と命令されたのは、イエスご自身であるとわかる。

神は姦淫を犯した人を死刑に処せと命令された。

夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。(申命記22・22)

イエスご自身がこの命令をされたのである。

それゆえ、「いくら要件が整っているからと言って、姦淫の女の処刑に賛同されるはずがない」と言う人は「イエスはご自身が定めた法律を無視するはずだ」と言っているのと同じである。

福音派の人々は、この矛盾を回避するために「旧約律法はイエスによって廃棄された」と言う。

しかしイエスご自身が「わたしは律法を廃棄しない」と言われた。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5・17)

「いや、廃棄はされなかったが、成就されたのだ。だから新約時代に姦淫罪に処刑は適用されない」と言う人もいる。

しかし、パウロは新約時代に「律法は無効にされているのではなく、かえって確立される」と断言した。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

「確立」とは「不確かなものが確かになること」であるから、律法は不確かな状態から確かな状態に変化した。

新約時代において、律法は「旧約時代よりも確実化している」のである。

新約時代において、クリスチャンは律法から解放されたなどという教えは、無律法主義の異端である。

 

 

2018年12月14日



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