神の国とは大衆運動ではない
イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」(マタイ13・33)
教会成長学が間違うのは、最初から全体を相手にするからである。
全体を相手にすると、どうしても大衆化する。
大衆化とは、だいたいにおいて文化とかけ離れていく。
ある教会成長学の教師がこういった。
ノンクリスチャンを集めるために、朝の礼拝でヘビメタをやればいい。
朝の礼拝でサタン崇拝をやれというのか。
昔予備校で教えていて、がっかりしたのは、大学入試が大衆化したことだった。
僕らが予備校生だった頃の予備校は文化の香りがした。
今の予備校は、テクニックの伝授だ。
教えている人は、教えることのプロだから実力的にはすごい人がいるが、しかし、生徒のほうは、アイドルのように見ている。
授業の終わりにアンケートをとって人気のある教師を選ぶ。
革命だと思った。教師の権威が失墜する。生徒は傲慢になり、教師を漫才師か何かのように扱った。
どんどん教育が堕落するのを感じた。
聖書が教える宣教の方法とは、大衆を変えることではなく、パン種を探すことだ。
パン種を探し、それが見つかると、そのパン種が発酵して周りの粉を膨らましていく。
イエスは大衆を直接の目標とはされなかった。
「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであ」る(ヨハネ2・24)。
イエスの周りに集まってくる人々から受けを狙うようなことはなさらない。
まず弟子を選んで、彼らを訓練された。
大衆を相手にすることは、サタンに隙を作ることだ。
米国のリバイバル運動を見たまえ。
あの運動の後で、キリスト教の共同体が消えた。
人々は熱狂して、教理などにこだわらなくなった。
カオスが生まれた。
カオスの後に何が秩序を作ったのか。フリーメイソンだ。
米国の建国が、ワシントンをはじめとするフリーメイソンによって行われた背景には、リバイバルがあった。
16世紀から17世紀にかけて信条及び共同体建設を中心に進んだ神の国運動は、18世紀のリバイバルによって大衆運動と化した。
それに伴って、いろんな異教の要素がキリスト教に入り、世俗化が起こった。
信条を中心としたキリスト教の共同体が破壊され、その後にフリーメイソンをはじめとする友愛組織が人々を結びつけた。
リバイバル運動とは、クリスチャンを聖書から引き離すために機能したと見てよいと思う。
リバイバル運動の象徴的存在であるビリー・グラハムは、フリーメイソンだ。
キリスト教の運動は人気に依存しない。
何人教会に集まるかなど関係ない。
不動の聖書を携えて、自分から相手に合わせない。
もちろん、相手にとってわけのわからないことを語るということではない。
教会学校の生徒に理解できない難しい神学を説けというのではない。
相手のレベルに合わせなくてもいい、といっているのではない。
少数のエリートを育てろといっているのだ。
人は優れた集団にあこがれる。
人々は、優れた教育を行うレベルの高い学校に子弟を入れたいと思う。
だから、最初からハードルを下げて相手におもねるようなことをやっていけば、逆にどんどんと人々は離れていく。
まずパン種を探せ。
弟子を作り、その弟子に英才教育をせよ。
次から次へと人はやってくるだろう。
しかし、本物はまれだ。
きわめてまれだ。
その人が来るまで我慢して待て。
神は必ずそのような人を送ってくださる。
10年待っても現れないかもしれない。
しかし、気持ちを崩さずに待て。
あきらめて、大衆化に走るな。
教会を企業と同じように考えて、結果を重視する人々の言葉に惑わされるな。
「あなたは伝道してもう10年になるのに支持者がこれだけですか。」などという惑わしに乗るな。
神の選びの人が現れたら、その人に教理的訓練を施せ。
いつまでたっても理性を聖書よりも重視し、聖書信仰に至らない人であるなら切り捨てろ。
それは追い出せということではない。
ただその人は弟子にはなりえないから放置せよ。
効率が悪い方法のように思うかもしれない。
しかし、これが最短コースだ。
しっかりした人が徐々に増えることによって、日本の全体が変わる。
なぜならば、そのような人々はパン種だからだ。
日本が変われば世界が変わる。
神の国とは大衆運動ではない。
2011年1月22日
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