悪魔との戦いの前にまず異端的教理を捨てるべきだ



正義や公正の基準を大衆に合わせると、社会秩序は大いに乱れる。大衆は、犯罪者や資本家、外国人、中流階級、下層階級、上流階級、その他のすべての階級と同様に、正義や公正を求めない。人々が求めているものは、自分自身の意志のみである!これこそがなぜ現代国家が問題を抱えているかの理由である。国家は人間の意志、つまり堕落した意志の権化である。真の法は、神の正義を表し、人々を他者や国家、自分自身から守るはずである。結局、主が次のように言われたとおりである。「心から出てくるものは、悪い考え、殺人、冒涜、姦淫、不品行、窃盗、偽証である」。このような心が「さあ、我々が法律を作ろう!」と言って、真の正義や公正を生み出すことがどうしてできるだろうか。

人間を超えることが出来るのは、神の法だけである。神の法だけが、人々に真の正義と真の公正を与えることができる。ホーウェル博士の言葉を再度引用しよう。「すべての共同体は、その統治思想によって定義できる。共同体を他の共同体と区別するのは、それぞれが持っている基本的な思想である。」まさにその通りである。ただし、ホーウェル博士はクリスチャンではないため、間違いがある。「基本的な思想」ではなく「基本的な信仰」と言うべきである。「基本的な信仰」こそが、あらゆる共同体、あらゆる社会秩序にとって判別基準である。信仰こそが、法律や共同体などの考えを支配する。
(R. J. Rushdoony, The "Atheism" of the Early Church (English Edition) Kindle版, position 1024)

1.

中国が気違い沙汰を行うように祈ってきた。

人々に誰かの本性を示す最善の方法は、自分から気違い沙汰をさせることである。

誰かがおかしい人であることをこちらが説得しても、他人になかなか理解してもらえないが、その人が自らバカなことをしてくれば、すぐに理解してもらえる。

クリスチャンは、御使いをも支配する権威を持っているので、常々「中国を支配している霊よ、行って、気違い沙汰をさせろ」と祈ってきた。

国際仲裁裁判所の裁定が下り、九段線が無効であることが明らかになった。

これに対して中国は「無視する。方針を変えない」と公言してはばからない。

国際秩序に対する公然たる挑戦をした。自ら悪役を買って出たわけだ。

これで、これまで中国が積み上げてきた「日本落とし」のプロパガンダ戦略は水泡に帰した。

いくら日本軍による残虐行為を宣伝しても、信用されない。

中共の指導のもとで左翼が展開してきた沖縄での工作活動も大きく後退した。

2.

歴史は、人間だけで作られるものではない。

背後に霊的な力が働いている。

神も悪魔もそれぞれのエージェントを利用して、戦いを行っている。

人間的な工作は、霊の世界での力学に依存している。

神の民が祈ることによって神の御手が働き、悪魔の勢力を圧倒すれば、人間の計画はとん挫する。

人間の心から出てくるものは邪悪オンリーである。

人間が神を無視して理想世界を作ろうとしても、心が邪悪なので、失敗する。

人間の法律や制度は、もし神の介入がなければ、ひたすら堕落に向かい、自ら地獄を作り出す。

人間は自分を救うことができない。

そのため、われわれは、神に祈る。

神の助けによって、われわれの心が作り出すことのできない高尚で、聖い、正義の法を制定し、われわれの心では維持できない秩序を保つことができる。

邪悪で横暴な共産主義国の侵略を防ぐことができるのは、神の助けがあるからである。

3.

われわれが祈らなければ、霊界における力学が悪魔側に有利に働き、現実の世界において悪の勢力が勝利する。

さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。
主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」(出エジプト記17・8-14)

「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」

ここで「手を上げる」は、祈りを象徴する。

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(1テモテ2・8)

祈りが、天における力関係を変化させ、それが地上に現れる。

アマレク人は、暴虐の民であった。

つまり、悪魔のエージェントであった。

悪魔のエージェントに対する戦いにおいて決定的に重要なのは、祈りである。

中共のような悪魔のエージェントは、祈りで倒すことである。

モーセが手を降ろすとイスラエルが弱くなったので、アロンとフルが「ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた」。

祈りの人は攻撃される。その攻撃は強く執拗である。

祈りの人が疲れ、その祈りが弱くなったり、途絶えていると感じたら、誰かがその人を支えなければならない。

霊的に成長すると、霊界における力関係の変化に敏感になる。

4.

霊的な訓練を経て、神の御心とがっちり歯車がかみ合った人は、祈りの人になる。

リベラルやバルト、ディスペンセーショナリズムのような「すけべ心」から生まれた異端に染まっているような教会に、祈りの人がいるわけがない。

教理的な誤謬の中にいる教会や人間は、「かみ合わない歯車をつけた車」である。

ギヤチェンジをしても、空回りする。

まずこれらの異端を捨てることである。

悪魔と戦うための祈りはそれからの話だ。

 

 

2016年7月13日



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