許されるのは過失罪だけである
あなたがたが、もしあやまって罪を犯し、主がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも、
主が命じられた日以来、代々にわたって主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行なわないときは、
もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、主へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。
祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される。それが過失であって、彼らは自分たちの過失のために、ささげ物、主への火によるささげ物、罪のためのいけにえを主の前に持って来たからである。
イスラエル人の全会衆も、あなたがたのうちの在留異国人も赦される。それは民全体の過失だからである。
もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。
祭司は、あやまって罪を犯した者のために、主の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。
イスラエル人のうちの、この国に生まれた者にも、あなたがたのうちにいる在留異国人にも、あやまって罪を犯す者には、あなたがたと同一のおしえがなければならない。
国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。
主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」(民数記15・22-31)
「あやまって罪を犯し」た場合、「赦される」。
「それは・・・過失だからである」。
「故意に罪を犯す者は」「必ず断ち切られ、その咎を負う」。
なぜならば、それは「主のことばを侮」ることであり、「主を冒涜する」ことであるから。
聖書において、故意に犯す罪が許しの対象となる箇所は一箇所もない。
過失と違って、故意の罪は、「神への冒涜」である。
神への冒涜とは、すなわち、神の造られた秩序に対する攻撃であり、サタンの罪と同罪である。
それゆえ、その人は必ず滅びる。
どのような法秩序であっても、誰でも故意に法律を破る人間を許せば、その法秩序は崩壊する。
革命はどのような国家であっても死罪である。
日本でも外患誘致罪は死刑である。
博多の高校で講壇に上がった生徒が教師を足で蹴る動画がユーチューブにアップされた。
これは「権威に対する故意の罪」であり、許されない。
このような生徒を許容すれば、秩序が崩壊し、学校の存在意味がなくなる。
実際、教室には勉強する雰囲気がない。
生徒の自主性に委ねても、秩序崩壊が起こる以外にはないのであれば、規則を厳格化して、自由を奪い、秩序を無理矢理造り出す以外にはない。
「人権侵害だ」というなら「別の学校に行ってください」としか言えない。
「学校には行きたいけど、規則は守りたくない」というような生徒には、卒業資格は与えるな。
だから、退学処分にするしかない。
このような厳しい措置をすると、学校を誹謗中傷する親が出てくるだろうが、そこで踏ん張らないとだめ。
世の中の常識が「生徒が悪い」と判断するまで学校側は頑張る必要がある。
常識が変われば、親もおとなしく権威に従うようになる。
「人権」重視を曲解して「秩序崩壊を招くような自由」をも与えたら、社会は成立しない。
全国の学校は、この点に関して一致団結すべきである。
2017年10月5日
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