被害者にも犯罪の立証責任がある
ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、
あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。(1)
もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。
その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。
この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。(2)(申命記22・23-27)
前者(1)は、合意の上での姦淫であるが、後者(2)は、強姦である。
聖書では、婚約関係は「同居なしの結婚関係」と見られる。
マリアは、ヨセフとの婚約関係にある間に妊娠した。
これは姦淫に当たるため、ヨセフは内密に離縁しようとした。
聖書では「ヨセフは義人だったので」と書いてあるので、申命記のこの律法は「姦淫は即死刑にしろ」という命令でないことがわかる。
被害者は、聖書に規定されている最高刑を要求する権利がある。したがって、婚約者が姦淫を犯した場合、死刑を要求することができるし、無罪にすることもできる。
ヨセフは「内密の離縁」を選択した。
さて、前者と後者を区別する基準は「叫び」である。
これは和姦と強姦を区別する、抵抗を示す一つの象徴的行為である。
それゆえ、叫ばなくても、たとえば、物理的に抵抗しても、その本人に拒絶の意志があった証拠と見なされる。
犯行の現場で、騒ぐと殺される恐れがあるため、抵抗すらできないことがある。
そのため、私は、聖書は、杓子定規に「叫びか物理的抵抗がなければ和姦とみなす」と述べているのではないと考える。
和姦の場合は、婚約関係もしくは結婚関係にある男または女は、いずれも最高刑として死刑が妥当である。
強姦の場合は、男だけが死刑である。
イスラム圏では、強姦された女性も処刑されるようだが、行き過ぎである。
被害者には罪がない。
ただ、だからといって被害者に責任がまったくないわけではない。
すでに述べたように「何らかの形で抵抗する責任」がある。
伊藤詩織さんが山口記者を訴えている件で、私は、この事件が不起訴になった正当な理由があると考える。
彼女は、睡眠薬レイプをされたと主張しているが、翌日、彼に対して「お疲れ様です」と何事もなかったようなメールを出している。
もし本当に強姦があったとすれば、被害者側としてこれは決定的なミスである。
反対論として、レイプ被害者が、事件のショックから相手に媚びを売って自分を守ろうとしたり、なかったことにして内面にしまっておくことがあるという人がいる。
それゆえこのようなメールを出したからといって、レイプがなかった証拠にはならないと。
たしかに、精神的な傷を負ったゆえに、正常な対応ができない心理は理解すべきである。
このような精神的及び肉体的な傷を負わせた被害者には心から同情するし、犯人は極刑に値すると思う。
しかし、それでも私は、被害者にも責任があると聖書から言う。
「あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであ(る)」
「町の中におりながら叫ばな」ければ、女も「石で打た」れる。
つまり、被害者は「当時抵抗の意志があったこと」を示す証拠を警察や裁判所に対して示す責任があった。
その意味において「お疲れ様です」とのメールは、非常に不利な印象を当局に与える。
私はここで一般に犯罪被害者を責めていると誤解されたくない。
聖書法には、被害者にも犯罪の立証責任があると記されている。
2018年3月24日
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