世界政府のためにすべての戦争はコントロールされている
大変興味深いブログがあった。
ヤコブ・モルガン著『山本五十六は生きていた』の書評である。
長文を引用させていただく。
一言でこの本の主張を要約すると
米による太平洋戦争は、日本国内にいた、海軍の山本五十六、米内光政、井上成美、陸軍参謀のの辻政信、瀬島龍三、服部卓四郎らがアメリカの支配に置かせるために、わざと拙劣な戦い方をした戦争であった」
ということになる。
山本五十六が「米英の手先」ではなかったか、という議論は良く訊いており、その根拠として、戦後、フリーメーソンに買収された海軍の士官の高級倶楽部「水交社(すいこうしゃ)」に山本や米内が頻繁に出入りしていた事実が挙げられている。米内内閣の組閣も対米開戦の真珠湾作戦の採用もこの倶楽部で決定されたと言われている。
この『山本五十六は生きていた』では、そのような戦前に行われた謀略の視点ではなく、実際の戦術問題を取りあげて「日本がどのようにして太平洋戦争にわざと敗北したのか」を説明する。
日本軍がアメリカをわざと勝たせたという疑問を抱かせるのは、日本の連合艦隊が、アメリカ海軍を撃滅するチャンスを何度もみすみす逃しているからである。真珠湾攻撃でも、山口多聞少将が、「第3次攻撃隊」を出すように強く主張したにも拘わらず、上官の山本五十六、南雲忠一のような司令長官クラスの人物達がその提案を受け入れなかった。ハワイの空軍基地に対する徹底的な攻撃をおこなわかったことで、アメリカの戦局に有利に働いたのである。
その他、井上成美第4艦隊司令長官が、昭和17年5月の珊瑚海会戦で、米空母「ヨークタウン」を撃沈することなく、攻撃を中止させた件、あるいは、いわゆる「海軍乙事件」として知られるものがある。
海軍乙事件とは、山本五十六が、将兵視察の際にブーゲンビル上空で米航空隊によって撃墜された事件を「海軍甲事件」というが、これに続く、連合艦隊司令長官戦死事件という意味だろう。
山本五十六亡き後の連合艦隊司令長官・古賀峯一らが載った航空隊がフィリピンのダバオに向かう途中に消息を絶ち、不時着した際に、古賀に同道していた、福留繁中将が抱えていた、のちの「マリアナ沖海戦」「レイテ海戦」の原案となる作戦資料が現地の原住民によって奪われた後、なぜか米軍に手に渡った。この文書のコピーはどうもアメリカの公文書館に保存されているらしい。(『帝国海軍が日本を滅亡させた』佐藤晃著の記述による)
そして、最後にレイテ海戦における、栗田艦隊の「転進」事件がある。この事件は、栗田健男中将がフィリピンのレイテ湾に逃げ込んだ米艦隊を深追いせずに追撃をやめたとされる事件である。
このいずれもその後の米軍の戦闘に有利に働いており、立役者となるのが、山本五十六以下海軍の「条約派」(親英米派)と言われた人物とそれに共鳴していたひとたちである。
そして、山本五十六や米内光政は、日独伊三国同盟に反対し、日米開戦にも徹底した反対者であり、彼らは水交社での日米海軍サークルを作り上げていた。
となれば、彼らは自らの合理的選択としてどのように行動するだろうか。
「日米開戦をなんとしてでも防ぐ(ただしそうだからといって彼らが戦後民主主義的な意味での絶対平和主義者ではない)」
しかし、どうも、アメリカのルーズベルト大統領は日米開戦を決意したという情報が伝わってきており、日本の陸軍も「それをやむなし」と考えているらしい、と彼らに伝わってきたらどうするか。
山本は「2,3年は暴れ回って見せます」と言っていたらしい。しかし、実際には暴れ回るというよりは無惨に負けて見せたという動き方をしている。
私は、こう考える。
「山本・米内は徹底した親英米派であるがゆえに、日本とアメリカを闘わせてアメリカを負けさせるわけにはいかない」という信念をもっていたと。これが小室直樹先生の言う山本五十六の「必敗の信念」の正体である。
http://volo.blog.so-net.ne.jp/2009-07-09
2014年8月10日
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