これからニュー・ワールド・オーダーは来ない



わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、成就するためである。(マタイ5・17)

「これからニュー・ワールド・オーダーが現れる」とする教えは、ことごとく異端である。

ニュー・ワールド・オーダーは、紀元70年にイエス・キリストが天の王になられたときに始まった。

それ以外にニュー・ワールド・オーダーはない。

これらの、ニュー・ワールド・オーダーを説く教えの究極的な目標は、「別のメシアを立てる」ことにある。

統一教会がそのいい例だ。

イエスは、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架の上で叫んだ。

これは、イエスが失敗者であることを示している。

イエスの働きでは不十分だ。

文鮮明様が再臨のメシアになって世界を完成される。

これが、統一教会の教義の中心である。

文という別のメシアが立てられる。

ディスペンセーショナリズムも「初臨のイエスの働きでは不十分だ」と考える点で同じである。

「再臨においてはじめてイエスの王権は確立する」と考えるので、今の世界をニュー・ワールド・オーダーとは見ないのである。

「キリストの御国、ニュー・ワールド・オーダーは、再臨によって実現する。それまでは世界は悪魔に支配される」と。

プレ・ミレ・ディスペンセーショナリズムと、ポスト・ミレが天と地ほどの違いがあることがお分かりだろうか。

聖書は、はっきりと「イエスは律法と預言者(つまり聖書)を成就するために来られた」と述べている。

イエスは十字架において「完了した」(ヨハネ19・20)と言われた。

ここで使用されているギリシャ語「テレオー」は、「成就する」という意味である。ギリシャ語辞典を見ると、次のようにある。

1) 終了させる、完了する、終わらせる

2) 行う、実行する、完成させる、成就する(実行される事柄は、言われていたこと、注文、命令などと関係している)
2a) 主題に対する特別な言及がなされる。「命令の内容を実行すること」


3)支払う
3a) 税を
http://classic.net.bible.org/strong.php?id=5055

「実行される事柄は、言われていたこと、注文、命令などと関係している」、つまり、テレオーは、「言われていたこと、注文、命令など」を「実行」し、「終了させる」ことを指す。

「律法と預言者を成就するために来」られたキリストは、それを「実行」し、「終了」、「完成」させられた。

イエスは、創造時に神と人間の間で結ばれた契約を成就された。

アダムが成就することができなかったこの契約は成就され、実行され、終了され、完成された。

キリストは、神が人間にお与えになった宿題をすべて果たされた。

だから、キリストにおいて「契約を守ったならば与えるとアダムに約束されていた永遠の命」は実現した。

それゆえ、誰でもキリストを信じるならば、永遠の命が与えられる。

もしキリストに「やり残し」があるならば、永遠の命も保証されない。

だから、信者である人々は裏切られる。

やり残しはない。

すべて完全にキリストが成就された。

だから、キリストの来臨こそがニュー・ワールド・オーダーである。

統一教会が述べるように「イエスは失敗者」ではない。

ディスペンセーショナリズムが述べるように「初臨では不十分」ではない。

初臨で、完全な新世界が到来した。

世界は「法的に」新世界に変わった。

われわれの住む世界は、「実際的に」新世界になりつつある世界である。

キリストは、それまで悪魔に乗っ取られていた世界を回復された。

だから、今、われわれの周りにおいて悪魔の働きがあるのは、「亜流」の動きなのである。

悪魔は「初臨のイエスではだめだった」と信じさせたいのだ。

「初臨では不十分だった。今でも悪魔が世界を支配している」と錯覚させたいのだ。

だから「本当の世界はこれから始まる」と訴えているのだ。

世の「終末を説く伝道者」は、サタンのために働く偽預言者である。

ディスペンセーショナリズムに基づく終末伝道は異端であるから、一切のかかわりを断つべきだ。

 

 

2014年1月19日



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