アルミニウス主義に基づく新改訳2



>イエスキリストの福音と信仰を信じる
> →神の義と信仰が与えられる
> ということですかね。
> 3版の訳からすると、最初に人間に信仰があって、それが神の義をもたらすという意味になるということですか。

おおむね、そうです。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ・・・(ローマ3・22)

この箇所は、「イエス・キリストの信仰 」つまり「イエス・キリストが持っておられた信仰」もしくは「イエス・キリストが与えてくださった信仰」によって神の義がすべての信じる人に与えられる、という意味です。

イエス・キリストが義認の主体であり、人間ではありません。

上記の新改訳では「人間がイエス・キリストを選んで、信じたから義認される」というニュアンスになってしまいます。

そうではなく、「神が人間を選んで、信仰を与えたから義認される」のです。

聖書が教える順番:

永遠の昔に神が無条件に人を救いに選ぶ→時至って、その人に信仰を与える→義認される。

アルミニウス主義が教える順番:

永遠の昔に神が人が救いを受け取るかどうかを予見する→その人を選ぶ→時至って、その人に信仰を与える→義認される。

アルミニウス主義は「神は、人間が信仰を受け入れるかどうかを予見し、その知識に基づいて救いか遺棄かを予定された」とするので、義認の主体が人間です。

しかし、聖書の一貫した主張は「神が、 将来生まれてくる人間がどのような行動を取るかにまったく依存せずに、一方的に人間を救いか遺棄かに予定された」ということです。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える 』 と彼女に告げられたのです。 」 (ローマ9・11-12)

救いは「 行ないにはよらず、召してくださる方による」のです。

詳述すると、

δικαιοσυνη δε θεου δια πιστεως ιησου χριστου εις παντας τους πιστευοντας ...

において、 πιστεως ιησου χριστουは、「イエス・キリストの信仰(faith of Jesus Christ) 」 であって「イエス・キリストに対する信仰 (faith in Jesus Christ) 」ではありません。

キング・ジェームズ訳では、この訳し分けはきちんとしています。

ガラテヤ3・22と26では、前者が πιστεως ιησου χριστουで、後者が πιστεως εν χριστω ιησουであり、使い分けが行われています。

ギリシャ語
αλλα συνεκλεισεν η γραφη τα παντα υπο αμαρτιαν ινα η επαγγελια εκ " πιστεως ιησου χριστου " δοθη τοις πιστευουσιν (22)
παντες γαρ υιοι θεου εστε δια της " πιστεως εν χριστω ιησου " (26)

KJV
But the scripture hath concluded all under sin, that the promise by " faith of Jesus Christ " might be given to them that believe.(22)
For ye are all the children of God by " faith in Christ Jesus " . (26)

意味
しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、 「 イエス・キリストの信仰 」 によって、信じる人々に与えられるためです。(22)
あなたがたはみな、 「 キリスト・イエスに対する信仰 」によって、神の子どもです。(26)

現代語訳聖書ではこの点が区別されていない翻訳が多いです。

American Standard Version
But the scriptures shut up all things under sin, that the promise by "faith in Jesus Christ " might be given to them that believe.(22)
For ye are all sons of God, through "faith, in Christ Jesus ".(26)

Bible in Basic English
However, the holy Writings have put all things under sin, so that that for which God gave the undertaking, based on " faith in Jesus Christ " , might be given to those who have such faith.(22)
Because you are all sons of God through "faith in Christ Jesus".(26)

「イエス・キリストに対する信仰」 であれば、 πιστεως εν χριστω ιησου ( faith in Christ Jesus)というように「 πιστεως + εν + 与格 」の表現になったでしょう。パウロはこの意味では、ガラテヤ3・26 、 エペソ1・1、コロサイ1・4、1テモテ3・13、2テモテ3・15 において 「πιστεως + εν + 与格 」の表現 を用いています。

πιστεως + 属格」はローマの該当箇所及びガラテヤ2・16と3・22において使用されていますが、いずれも 「イエス・キリストが持っておられた信仰」もしくは「イエス・キリストが与えてくださった信仰」と訳すべきですが新改訳では「イエス・キリストを信じる信仰」と訳されています。

しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただ<キリスト・イエスを信じる信仰>によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、<キリストを信じる信仰>によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ2・16)
しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、<イエス・キリストに対する信仰>によって、信じる人々に与えられるためです。(ガラテヤ3・22)

もちろん、属格にはObjective genitiveといって「動詞+目的語」の関係を表す用法もありますので、「イエス・キリストを信じる信仰」と訳せなくもないですが、パウロが言い方を変えているので、意味の違いを読み取るべきです。

 

 

2018年5月20日



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