物部氏とキリスト教2


バビロン捕囚にあったユダヤ人たちは、紀元前537年ペルシャのクロス王によって解放された。

ユダヤ人は、紀元前607年から537年まで、70年間捕囚状態にあった。(*)

すでに述べたように、兵馬俑の労務者にペルシャ人がいたことから、秦帝国にペルシャ人とともにユダヤ人もきていた可能性がある。

徐福は「斉(せい)」の方士であった。

方士とは:


中国古代の方術を行なった人。方術とは,卜筮,医術,錬金術などをさす。『史記』の「封禅書」と「秦始皇紀」に初めてその名がみえる。戦国時代の後期から燕や斉の地方を中心に不老不死の仙薬について説いた人で,その説を秦の始皇帝や漢の武帝も信仰した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

どうやらこの方術は、ペルシャから持ち込まれたユダヤ思想と深い関係があったと思われる。

斉のあった山東半島付近の遺跡からアーリア人や中央アジアの遺伝子を持つ人骨が発見されており、かなり古くから西域の人々が居住していたことが判明しつつあるという。(前掲書301ページ)

斉では、ペルシャでよく見られる樹木双獣文(騎馬文)が描かれている瓦が発見されている。




前掲書に記された三上次男氏によれば、「いのちの木」の描かれた瓦も発見されているという。

「斉の瓦のモティーフにある生命の木のアイディアというものがペルシアから中国に入ったものだとすれば、紀元前四世紀くらいに西から来たものでしょう。あの頃は非常に東西交流が盛んだった頃ですからね。」

古代ペルシャのいのちの木のデザイン(前掲書246ページ):



「いのちの木」は、バビロンにおいて発達したユダヤ教の神秘思想カバラの奥義である。

徐福には、明らかにユダヤ教カバラの知識があった。

なお、最近になって徐福の故郷が斉のすぐ南の国「越」であったと明らかになった。

越は、ジャポニカ米の故郷であり、銅文化が栄えた土地であった。

物部氏の神である豊受大神は五穀を日本にもたらした神であり、物部氏は銅鐸祭祀を行っていた。

徐福は、越から五穀と銅文化を持ち込み、斉からユダヤ思想を持ち込んだのではないか。

『史記』の准南衡山列伝には次の記録がある。

仙薬を求めさせた徐市は帰還すると、

「海中の大神は始皇帝の礼が薄いという理由で延年益寿の薬を取ることを許さない。
良家の童男童女とさまざまな分野の技術者を連れてくれば叶うと言っている」と報告した。

不老不死の薬を得たい始皇帝はおおいに喜んで、
良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子と
さまざまな分野の技術者を徐市に託して旅立たせた。

徐市は、平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となり、二度と帰らなかったという。

おそらく、神社の構造がユダヤ教の幕屋や神殿とそっくりなのは、徐福の方術の知識に基づくのであろう。

まとめると、

ペルシャのユダヤ人→斉の国に居住→方術に影響を与える→徐福は越出身の方士→斉のユダヤ教思想と越の穀物と銅文化を日本へ→物部王国建国

(*)

ちなみに、ソヴェト連邦という捕囚制度が続いたのも70年(1922年から1991年まで)。

おそらく日本がイルミナティ・アメリカの捕囚であった期間も70年(1945年から2015年まで)。

おそらく中国がイルミナティ・中国共産党の捕囚であった期間も70年(1949年から2019年まで)。

 

 

2016年10月1日



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