賛美集会をする前にまず聖書研究をせよ


西洋では、古来、3大職業は、神学者、法律家、医者であった。

いずれも社会の根幹を担う重要な職業である。

だから、多くの尊敬を集めてきた。

現代の日本社会において、法律家と医者は尊敬されるし、報酬も多いが、神学者などは見向きもされない。

神学者として生活を成り立たせることは非常に難しい。

しかし、重要性から言うと、神学者は法律家や医者をはるかに凌駕している。

なぜならば、社会の基本的な枠組みを決定するからである。

社会は、思想に基づいて形成されている。

間違った思想、たとえば、共産主義に基づいて形成されると、とんでもない社会になる。

ソ連にいたころ、キャンディを買うために30mもの行列を作った。

買うに際しても、まず売り子に注文すると、グラム数と値段を書いた切符を切ってもらう。

その切符をカッサ(レジ)のところに持って行ってお金を払う。その領収証を持って、再び売り子のところに行く。

こういう無駄で非効率なシステムを70年も続けたロシア人の忍耐力に驚嘆する。

私は、無駄なことが大嫌いだ。

だから、プログラマーに向いている。

機械でできることはできるだけ機械にやらせようとする怠惰な性質を持っていないとプログラマーには不向きだ。

共産主義社会は、100%の雇用を実現するために、効率性を犠牲にする。

雇用こそが至上命題だから、あらゆる人に仕事を割り当てる。

だから、ホテルの各階には当直のおばさんがいる。

ホテルを出入りするときは、そのおばさんに鍵を渡したり、受け取ったりする。

トイレには、手を洗うところにおじいさんが座っている。用をすませた人にタオルを渡す。

これらは、西側ではけっして見られない職業である。

労働者の天国では、非効率と無駄が最大化する。

労働の価値は、需要と供給で決定されるが、共産主義社会では、雇用が至上命題になるので、この需要を無視するためにバランスがめちゃくちゃになるのだ。

(2)
われわれは、カントにおいて、世界が決定的に間違った方向に向かったことを悟るべきだ。

人間のために、人間が神と無関係に被造物を自由に利用できるという考えを確立した。

その後のほとんどすべての哲学はこの前提に立つ。

共産主義も同じである。

ソ連とは、人間が人間のために人間によって運営された国家であった。

このように、思想において、現代社会は、決定的に間違っており、そのために矛盾や問題が噴出している。

思想において間違うことは、他のすべての領域において間違うことと同義である。

思想において間違ったら、その社会は終わりである。

70年くらいは続くが、必ず滅亡する。

だから、思想を扱う神学者の仕事はこの世界においてもっとも重要で貴重なのである。

まず、社会が健全化するには、聖書に基づいて正しい教えが教育されなければならない。

聖書を拒否し、カントに従うならば、結局のところ、滅亡する。

だから、われわれの至上命題とは、「いかに聖書的な社会を作るか」であり、それゆえに「いかに聖書を研究する体制を作るか」である。

聖書を正しく理解しないことには、正しい社会思想は生まれない。

(3)
上述のとおり、現代社会の基本思想は、カントの作ったヒューマニズム(人間教)=人間が神になる偶像礼拝である。

現代社会の基本的な問題は、偶像礼拝、被造物礼拝である。

人間が神であるから、神学は毛嫌いされ、冷遇される。

神学者は無益な職業とみなされる。

神学について金を払う必要はないと人々は考えている。

実は、もっとも資金を投入しなければならない領域が資金不足で困っており、資金を投入しなくてもよい、重要度の低いプロスポーツ、お笑いタレントなどの職業にお金が大量投入されている。

人間がサタンの惑わしによっていかに無益な存在になったか、これでお分かりだろう。

すべて、的外れ、倒錯なのだ。

この倒錯を自覚するには、よほどのことが起こらなければならない。

人々が、自分の社会や生活の問題の理由についてまったく無自覚なのは、サタンが重要なものとそうではないものの区別をつけることを妨害しているからである。

(4)
今の教会において行われている賛美や霊の集会は、ほとんど無益である。

なぜならば、賛美をささげる対象が漠然としているから。

「イエスを賛美します!」とたしかに言うが、しかし、そのイエスとは何者か。

聖書が証言する神の子イエス・キリストのことか。

そうではない。

自分の頭で作り上げた偽メシアである。

なぜならば、彼らにとってイエスが本当はどのようなお方かは、どうでもいいことだからである。

聖書のどこにもそんなこと書いていないのに、イエスを長髪に描く。

律法では、男性はナジル人を除いて短髪が命令されていた。

ナジル人は、「自ら志願して[1]、あるいは神の任命を受ける[2]ことによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである」(Wikipedia)が、「ありとあらゆる葡萄の木の産物を口にすることを禁止され」ていた。また、「死者に近づいてはいけな」かった。

イエスは、「大酒のみ」と揶揄されたので、葡萄酒を飲んでいたことは明らかである。また、ラザロをいやすために死者に近づかれた。これからイエスはナジル人でないことは明らかである。

だから、間違いなくイエスが短髪であったと結論することができる。

私は、今いろんな絵画に示されるイエス像が長髪として描かれているのは、「俗世から遊離した修行者」と人々に認識させるためではないかと思う。

「イエスは霊的世界に関するリーダーであって、世俗世界に関しては権限を持っていなかった」と信じ込ませるためのサタンの惑わしであろう。

だから、このようなイエス像を心に描いている今のクリスチャンたちが、イエスに賛美をささげると言っても、それが本当の賛美の行為になるのか疑問である。

本当に賛美をささげたいならば、まずイエスについて知ることである。

どのようなお方であったのかを。

信じる対象を聖書によって定義されていない神を拝むことは、偶像礼拝である。

だから、私は、今のクリスチャンは、賛美集会を開く前に、まず聖書研究をすべきだと思う。

 

 

2012年7月31日





 

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