無条件的救いは間違いである。
なぜならば、聖書全般において、意図的かつ執拗な契約無視・違反は、赦されないと教えているからである。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。(ヘブル10・28)
それでは、このことと、予定論、「限定的贖罪」及び「聖徒の堅忍」の教理とはどう調和するのだろうか。
予定された人は、必ず悔い改めに導かれ、契約に従順になるのである。
神は、永遠の昔に、救われる人の数を限定し、予定され、キリストはその人々のためにのみ十字架にかかられた。
もちろん、普遍的な意味においてキリストの贖罪は万物に適用される。
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
「法的に」全世界は聖められている。
しかし、「実際的に」聖められていなければ、罪は残る。
薬があっても飲まなければ効かないのと同じである。
神はある特定の人々にのみ信仰を与え、「贖罪が実際に適用されるように」あらかじめ定められた。
つまり、神は薬を飲む人をあらかじめ限定された。
信じた人は、その後の行いがどうであれ、必ず救われる。
信仰した後で、行いが伴わないからといって救いからもれることはない。
では「御言葉を無視する者」はどうなのか。
無視するような人は、2つの可能性がある。
1.現時点で一時的に「道を逸れてしまった」。
2.最初から選ばれていなかった。
1.予定されている人は必ず立ち返る。今、たとえ迷い出ているとしても、救いに予定されている人は必ず立ち返る。
2.立ち返ることなく死亡した場合、選びの中になかったと判断される。
神の選びとは「信仰し、悔い改めの実を結ぶ」というワンセットでの予定である。
この悔い改めは行いではない。
本当に予定され、救われている人は、悔い改めざるを得ない。
神の一方的な恵みによって、必ず悔い改める。
しかし、予定されていない人は、最後まで頑固に悔い改めを拒否する。
予定されていたペテロは悔い改め、予定されていなかったユダは悔い改めず自殺した。
われわれが救いを勝ち取っていくのではなく、救われざるを得ないように導かれる。
それが聖徒の堅忍である。
一度救われたら、われわれの意志に関係なく、必ず従順に導かれ、悔い改めるので「御言葉を無視する」ような人にはならない。
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6・9-11)
コリントの人々は、「不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしてい」た(8節)。
それにもかかわらず、パウロは彼らを「洗われ、聖なる者とされ、義と認められた」と宣言した。
パウロは、コリントの人々が悔い改めるようになると信じていた。
「神の国を相続できない」ような「正しくない者」から、悔い改めて「正しい者」に変わることを信じていた。
なぜならば、予定された人は必ずそうなるからである。
フェデラル・ヴィジョンは、「条件的契約論」を信じる。
つまり、人は信仰だけではなく、その後の行いによっても救われると説く。
信仰+行為=救い
である。
それに対して、聖書は、
信仰のみ=救い
である。
前者は、ガラテヤ書で否定されている。
信仰によって救いの条件は完全に満たされている。
神は、予定された人が悔い改めることをも予定された。