聖書は前提であり疑いから出発することは罪である5
では、神の言葉に対する人間として正常な態度とは何か。
ただひれ伏すことである。
神が御言葉を発するときに、われわれができる態度は、ただひれ伏して「承知しました!」ということだけだ。
「さあ、この御言葉が正しいかどうかについて議論しよう」ではない。
御言葉は常に正しいのである。
なぜならば、神は無から世界を創造されたから。
神ご自身以外に基準は存在しないから。
万物は神の創造によって存在せしめられ、神の摂理によって今も存在し続けているから、神や御言葉を裁く基準にはならない。
「自然法は、神をも裁く基準である」とギリシア人は考えた。
なぜならば、神の前に自然があったと考えるから。
この伝統が西洋に引き継がれた。
それで、西洋文明には、「神をジャッジする」伝統がある。
序列を作る。
神―天使―人間―動物―昆虫―無生物―・・・
聖書において、神は序列の中に入らない。
なぜならば、神は基準だから。
神を被造物と同じ序列の中に入れることが、「無からの創造」に反している。
西洋文明において自然秩序だけが絶対なのだ。
神を相対化する伝統が西洋思想にある。
しかし、カントは、この自然秩序すらも破壊した。
「人間は、自分の主観で世界の秩序を組み直してよい」と。
自然法という超越法を否定し、人間を超越者にした。
「人間は創造者として世界に君臨してよい」と。
この傲慢極まりない考え方を、現代人はしている。
だから、現代人は、サタン化した。
神のライバルになったわけだから。
現代人がクリスチャンになるということは、自分を神とする〇〇教(〇〇に自分の名前を入れる)の信者であることをやめて、キリストを神とするキリスト教に変わったことを意味する。
だから、われわれにとって訓練の課題は、「自己中心から神中心に変わる」ことにある。
ノンクリスチャン時代に慣れ親しんだ「自己実現こそ人生の目的」「夢を実現する」「いつまでも輝いている自分でありたい」「いかに金持ちになるか」みたいな目標を否定し、「どうしたら神の国を拡大できるか」「神の栄光を表すにはどうしたらよいか」「神のためにどうやってお金を手に入れるか」「神の働きにどうやったら自分の才能を生かせるか」というような価値観に転換することである。
今のアメリカの福音派は、現代人に媚びるキリスト教である。
「自分を捨てて、十字架を負ってわたしに従いなさい」というイエスの御言葉を信じない。
「自分の可能性を最大限にするには」みたいなセミナーで人を惹きつける。
キリスト教がセミナーを開く場合、その前に「神のために」という言葉をつけなければならない。すなわち、
「神のために自分の可能性を最大限にするには」でなければならない。
しかし、現実は、「神のために」が抜けている。
ロバート・シュラーの教えのように。
ロバート・シュラーは、可能性思考を広めた。
カリフォルニアにある彼の教会に行ったことがある。
あの壮麗なクリスタル・カテドラルは、今は彼の手にはない。
彼はすべてを失った。
不可能な身分になった。
フラー神学校の教会成長学に騙された世界中の牧師と同じように。
フラー神学校は、世界中の教会の神学をヒューマニズム化した。
牧師に自己実現を目指させた。
教会が一種の企業に変わった。
教会礼拝出席者人数によって、成功か不成功かが判断されるので、脅迫まがいの勧誘方法が開発された。
私が前いた教会では、新聞勧誘員に「新聞を取ってあげるから教会に来ませんか」と誘えと教えられた。
牧師が、献金額の増大を目標に掲げるようになって、教えを人気のあるものに変えた。
「『罪』という言葉は刺激が強いので、『弱さ』に変えるべきだ」というような教えが堂々と主張された。
私は、すべてをこの目で見てきたから言える。
教会の使命は、「神の真理をまっすぐに伝えること」であって、人数を集めることではない。献金額を増して、ガラス張りの教会堂を立てることではない。ボディガードを両脇につけて、自家用ジェット機で来日することでもない。
ときどき「再建主義は日本で何人いるのですか」と聞かれる。
何人いてもどうでもいい。
神の時が来れば誰が反対しても広まるでしょう。
「そんなことを言えば、みんなあなたの考えはカルトだと言いますよ」とかどうでもいい。
「みんな」って何?
幻想ですよ。
神の目で真理なら勝利するし、神の目で虚偽なら敗北する。
商売じゃないんだから。
人気で決まるようなものではない。
教会を強くするのは、聖霊だけであって、人気などまったく関係がない。
こういう今のクリスチャンの言葉、発想を見ると、完全にフラー神学校に毒されたということがわかる。
福音派は、カント流の「人間教」に堕落した。
自覚的に間違いから離れないと、彼らと一緒に滅亡するからご注意。
2012年8月10日
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