すべては予定されている2



「すべては予定されている。」を読んで。

祈るとき、「全知全能なる神様。」と多くのクリスチャンは祈りますよね。
この「全知全能」の意味を深く理解して祈っている人は少ないと思います。
祈る言葉の意味が浅薄な理解になっているのだと私は感じてます。
全知全能なんだから、不可能なことは無いんです。オールマイティーなんです。
自分の思考範囲で神理解をしようとるすと、「すべては予定されている。」なんて、到底解らないでしょう。
思考のどこかに神の主権よりも自我を上に置いているから、予定論に対して文句も出てくるんでしょう。
何処の誰かは判りませんが、質問された文言は横柄な内容ですね。
読んでいて腹が立ちました。

そのとおりですね。

人間が、聖書を様々な文書の寄せ集めと考えたり、預言が出てくると「事前に知っているはずはないから、これは、後代の教会人による加筆だろう」などと考えるのは、聖書を超越者の啓示と理解していないからです。

聖書は、われわれの世界を超越した世界にお住まいになっている方が、超越的に示してくださったものであり、それゆえ、われわれの側で、ああだこうだ言えないのです。

われわれは、被造物であり、相対者ですが、神は絶対者であり、絶対的な権限を被造物に対して行使されるお方です。

だから、われわれの手は絶対に聖書には届かない。遠くにあるため届かないのではなく、次元がまったく違うので届かない。

それを改変したりすれば、裁きをまぬかれることは絶対にできない。

イエスのほかにマリアという仲保者をつけるのは、神としてのイエスの絶対性、超越性を無視した暴挙です。

ローマ・カトリックは、それゆえ異端です。

恐ろしい罪を犯している。

神の言葉に対しては、いっさい文句を言ってはならない。

われわれが、神の言葉を受け取るときには、土下座して顔を上げることなく、微動だにせず、恐れおののきながら聞くしかない。

そういう類のものです。

今のクリスチャンも神や聖書を完全に誤解している。

被造物に対するように接している。

とんでもないことです。

 

 

2012年7月1日

 

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