信仰はキリスト族に加わるための唯一の条件である


あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。(コロサイ2・12)

Buried with him in baptism, wherein also ye are risen with [him] through the faith of the operation of God, who hath raised him from the dead.(KJV)

In that ye are buried with him through baptism, in whom ye are also raised up together through the faith of the operation of God, which raised him from the dead.(1599 Geneva Bible)

συνταφεντες αυτῳ εν τῳ βαπτισματι εν ῳ και συνηγερθητε δια της πιστεως της ενεργειας του θεου του εγειραντος αυτον εκ των νεκρων

原語に忠実に英訳すると、

Buried with Him in the baptism, in whom, you have also been raised up together, through the faith of the energy of God who has raised Him from the dead.

となる。

これをできるだけ原語に忠実な意味になるように日本語訳すると、

あなたがたは、バプテスマにおいてキリストとともに葬られた。さらにあなたがたは、キリストにおいて、ともによみがえらされたのだが、それは、死人のうちよりキリストをよみがえらされた神の力がもたらす信仰による。(*)

となる。

クリスチャンは、バプテスマにおいて死んで、復活した。バプテスマに復活の力があるのではない。バプテスマは、復活を表す象徴であって、それ自体に力があると考えるべきではない。このように考えるのは、神秘主義である。「バプテスマによる救い」は神秘的な力を信じる異教の考え方である。

バプテスマという儀式を通じて、われわれは、キリストとともに葬られ、新しい人に生まれ変わったことを証する。

われわれを復活させたのは、信仰である。信仰には、死人を復活させる力がある。

なぜか。信仰は、われわれをキリスト族のメンバーにするからである。われわれは、信仰することによって、キリスト族の会員証を手に入れる。

人間は、アダム族の一員として生まれる。アダム族は、エデンの園において契約違反をした。そのため、アダムから生まれるすべての人は、堕落しており、霊的に死んでいる。毒蛇から毒を持たない蛇が生まれないように、堕落したアダムから生まれる人は全員堕落している。

アダムは、土から作られたので、被造世界全体とつながっている。それゆえ、アダムが堕落したときに、被造世界全体が堕落した。犠牲の動物の血は、神殿の祭壇にも、契約の箱にも振りかけられた。なぜか。祭壇や契約の箱ですら堕落しているからである。動物の血による清めは、キリストの完全に聖い血によるそれを象徴する。

堕落した者がする善行は、「罪を増やすこと」にしかならない。われわれは善行をするたびに「なんて俺は立派なのだろう」と自慢する。時折「この善行を行えば、人々は自分を高く評価してくれるだろう」と嫌らしいことを考える。

人間の目から見ればすばらしい行いでも、神の目から見れば、罪の累積に過ぎない。

それゆえ、自分を救おうとする努力は無駄である。自力救済を繰り返すたびに、どんどん汚点を増やし、救いから遠ざかる。

完全に聖い神に捧げるものは、完全に聖くなければならない。コップに一滴のドブ水を入れて客に飲ませることができないのと同じように、神に対して一つの罪でも含まれている行いを捧げることはできない。

それゆえに、われわれには、キリストが必要なのである。

信仰を決意し「イエス・キリストが自分の救い主であり、主である」と告白すれば、キリスト族に入る。

キリスト族に入った瞬間に、われわれはキリストを着る。

神はわれわれの罪を見るのではなく、キリストの善行を見られる。

われわれは、キリストと同じように、十字架上で処刑され、墓に葬られ、そして、復活する。

(*)
ここで「神の力がもたらす信仰」と訳したのは該当箇所のτης πιστεως της ενεργειας του θεουにおいてτης ενεργειας του θεουが属格であり「神の力の信仰」(つまり、「神の力がもたらす信仰」)という意味であって、της πιστεως εν τῃ ενεργειᾳ του θεουのように「神の力に対する信仰」ではないからである。KJVやジュネーブ訳では"the faith of the operation of God"のように原語に忠実に訳されている。

繰り返すが、属格にはObjective genitive(目的語的属格)という用法があるので、「神の力の信仰」を「神の力を信じる信仰」と訳しても間違いではない。

ただ、ガラテヤ3・22と26から、パウロがこの2つを使い分けしていることが明らかなので、「πιστις + 属格」はSubjective genitive(主語的属格)として訳するほうがよいと考える。

 

 

2018年5月22日



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