通過儀礼が必要だ


酒タバコを勧めるつもりではないことをまず了承してほしい。

酒タバコは、一般社会において通過儀礼である。

どの社会でも子供と大人を区別する通過儀礼がある。

ある未開の部族では、高い塔から飛び降りる。飛び降りる勇気があるものは大人とみなされる。

日本でも昔「抜歯」や元服といった大人になるための儀式があった。

ユダヤでは、トーラー」をかかえて成人を祝う。

クリスチャンに何か通過儀礼があるだろうか。

今のキリスト教では、酒タバコが禁止されているから大人と子供を分けるものがない。

これは大きな欠陥だろうと思う。

私は、学生時代、クリスチャンとして酒タバコをやらないことで「優れている」と考えていた。

社会に出て、自分が子供のままであることに気づいた。

それは、おそらく今のキリスト教の文化の中に通過儀礼がないからだと思う。

通過儀礼がないということは、その背後に「大人になる必要性がない」ことを意味している。

今のキリスト教では、「大人になる必要はない」。

教会のキャンプで幼稚園でやるようなゲームをする。
(もちろん、ゲームそれ自体が悪いというわけではない。)

休日のレクリエーションでは、遊園地や公園に行く。
(もちろん、行くことそれ自体が悪いというわけではない。)

学生時代にクリスチャンの中で楽しい思い出がたくさんある。

だから、それを否定するつもりはまったくない。

しかし、社会に出たときに、ギャップがあった。

普通の大学生が、子供時代と大人の区別をつける通過儀礼である酒タバコを経験しているのに対して、自分は何もなかった。

もちろん、酒タバコをやらないことが悪いわけではまったくないのだが、その通過儀礼に伴うもの―つまり、社会人として、大人としての責任感や覚悟―までもが欠落していることに気づいて愕然とした。

大学時代、伝道活動をしていたクリスチャンは、会社に入ってびっくりする。

それは、周りが酒タバコをやるということだけではなく、それに伴う大人としての常識や覚悟、約束事、決まり、ルール、不文律そういったものまで欠落している自分に気づく。「まじめだけじゃだめだ」ということにも。

酒タバコをやらないことによって、自分は大人になるための通過儀礼を経ていなかった、という意識は強烈なトラウマになる。

私は、正直言うと、あの福音派のお花畑には帰りたくない。クリスチャンの中にいることはまさに「地上天国」であった。

すばらしい感動を得た。ノンクリスチャンが絶対に体験できないような霊的な世界のすばらしさを体験した。

しかし、実際に仕事をきちんとやるとか、納期を守るとか、遅刻しないとか、そういった社会人として、大人としての訓練はまったくできていなかった。

私は、クリスチャンにも、通過儀礼が必要だと思う。

そして、クリスチャン社会全体が、若者を職業人、社会人としてものになるように育てるべきだと思う。

クリスチャン教育は明らかに片手落ちだったと思う。

 

 

2011年5月26日

 

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