まともな人と付きあえ
精神的なトラウマに苦しんでいるならば、環境を変えることである。
人間関係で苦しんでいるなら、その人間関係を捨てることである。
部屋の温度が100度のサウナのようなところで生活したいと思うか。
環境が悪ければ、そこから出ても、恥ずかしいことでもなんでもない。
とくに人間の場合は、離れたほうがいい。
人間は、被造物の頂点に立つ理性的存在なので、有害な人間の側にいることは自分の精神を狂わせる。
動物ならば檻に入れればいい。
しかし、人間は檻に入れても看守に賄賂を渡したりして出てくる。
知恵があるからもっとも手ごわい敵になる。
サタンがあなたをダメにするためにその人に入る。
そして、あなたに聖書とは異なる価値観を植え付けようとする。
たとえば、「世間の人がどう思うか」みたいなことをいつも口にするような人と一緒に暮らせば、自分が「人を恐れる」というクリスチャンにとっては最悪の病気になる。
人を恐れることは、「長期間療養を必要とする心の重傷を負うこと」を意味する。
箴言にあるように、「人を恐れると罠にかかる」のである。
罠にかかった動物はどうされるか。
殺されるのである。
毛皮をはがれたり、食肉にされたりする。
だから、自分を「人を恐れる」ように導く人と同居することは非常に危険なのだ。
世間体を気にする人とか、学歴コンプレックスの人とか、世の中の考え方を聖書よりも優先する人とか。
自分の心に傷があるのは、こういう人と暮らしているからかもしれない。
あなたは、人を恐れることによって、罠にはまり、サタンの餌食にされてきたのかもしれない。
私は、あまり世間体を気にするほうではなかった。
会社に入ったときに、自分のそれまでの生き方を否定するようになった。
なぜならば、卒業前にいろんな出来事があって、完全に自信を喪失したからだ。
周囲の目を恐れるようになると、地獄が始まった。
ネクタイの色や柄、もっているカバンや靴。ちょっとした行動が、気になった。
なぜならば、会社の人がそういうことを気にするから。
以前なら持っているカバンで人を評価などしなかったが、会社員として働き始めると「こういうカバンを持っている奴はダメな三流のやつ」と判断した。
これはどの世界にも存在するだろうが「格付け」というものがあって、その世界の格付け基準を持たないと、うまくその世界で泳いでいけないのだ。
同窓会なるものにあまり出たくないのは、会社の人間の独特な価値観に触れたくないからだ。
彼らにとって、同調しないことが悪である。
私は、今、すべてが幻想だと思っている。
自分の評価の基準を人に決めてもらうような世界は幻想なのだ。
その世界が私に何をできるのか。何もできない。
会社や組織から離れて生きていけないのか。生きていける。
「神の国とその義を第一に求めよ。そうすれば、これらに加えて必要なものは与えられる」というのが聖書の約束である。
われわれが人生で第一に追求すべきは神の国である。
衣食住はそれについてくる。
人類のほとんど全員が神の国を求めず、無益な人生を送っている。
組織に捨てられたらとか、誰かに捨てられたらやっていけないと考えて、神の国なんてどうでもよくなっている。
だから、かえってトラウマを受けてきたのだ。
神ではなく、人を恐れたので、罠にかかった。
罠によって脚は傷つき、その後の袋叩きによって精神はずたずたになった。
「神の国?そんなのどうでもいい。売り上げないとやっていけないじゃないか。神様神様言ってもどうにもならないんだよ」というような文句を言う人と私は付き合いたくない。
一生出会わないことを祈る。
2013年10月12日
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