棲み分けのすすめ


聖書的な考え方をしていない人とはできるだけ付き合わないほうがいい。

その人の世界観が自分に「伝染」するから。

その世界観の中に入ると、何もかもが異常になってくる。

日本人の場合、だいたいが「人を恐れよ」というものだ。

組織に順応することが第一に求められる社会である。

空気が読めないとか言われて、村八分にされ、トラウマになるかもしれない。

その異常な世界観の中に長くいればいるほどトラウマは深く大きくなる。

場合によっては傷が癒えるのに20年かかるかもしれない。

だから、相手が異常な世界観を持っていることがわかったら、すぐに手を切ること。

自分が持っている聖書的な世界観が捻じ曲がる前に手を切ること。

1万人の教団の中で生き残るために必死に生きるよりも、正しい世界観を持っている数人の人の中で生きるほうが圧倒的に有意義である。

既存の権威に嫌われるとか、つまはじきにされるとかの心配は馬鹿げている。

そんな心配は百害あって一利なし。

この人は人を恐れて生きているんだなあ、と思ったら、避ける。

避けられない場合は、できるだけ自分の領域に入ってこないように、防御線を張る。

距離を置く。

事態が深刻になりそうならば、遠くに引っ越す。その集団を抜ける。

環境を変えて、まともな人と付き合う。

そして、ああでもないこうでもないと悩む時間を、未来に向かって建設的な仕事に没頭するために使う。

伝染病患者がたくさんいる病院の中で感染を恐れながら生きるよりは、その病院を出て、その心配のない環境に行って、心安らかに生きるほうがいいのと同じである。

わざわざ危険な環境に入るのはおろかである。


思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。(1コリント15・33)

われわれは、付き合う相手を吟味しなければならない。

そして、悪い人間と不運にも出会ってしまい、心に深い傷を負ったのであれば、それは伝染病にかかったと考えて、そこから離れて、きれいな環境で暮らす。

伝染病のことを心配しても何もいいことはない。

おかしい人は永遠におかしいのである。

人間は変わらない。

変わることを期待してはならない。

そのおかしい人がその後どうなろうとどうでもいい。

そのおかしい人に好かれる必要はまったくない。

動物にはそれぞれ生活領域がある。

自分が暮らしている領域が自分に合っていなければ、変えるべきだ。

魚が、砂漠の中で暮らしていけないように、聖書的世界観を持ったクリスチャンが、典型的な日本人の世界観を持つ人々の中で暮らせるわけがない。

無理に暮らそうとすると精神がやられる。

「しがらみがあるから…」

しがらみは捨てる。

精神をやられるほどに、そのしがらみは自分にとって貴重なものなのか。

精神がやられるならすべてダメである。

健康を失うことと、しがらみと比較して、どちらが大切か。

命あっての物種。

健全な精神あっての物種。

世界観、ものの考え方は、生きていくうえで決定的な要素である。

それが根本から違う人々の間で生きていくことは自殺行為に等しい。

それがたとえ親戚であっても、住みやすいほうを選ぶべきだ。

神によりよく仕えられる環境を求め続けるならば、必ず与えられる。

水を得た魚が、砂漠の生活を心配しないように、世界観の異なる人々のことを思い出す必要はまったくない。

それを思い出す時間は無駄である。

 

 

2014年12月19日



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