創造者に対する態度と被造物に対する態度はまったく違う
(1)
これは、非常に不思議な現象なのだが、霊的な存在を見抜くと、背筋がぞくぞくする。
背筋というより、全身が総毛立つ。
悪霊が自分の中から出ていくときも、ゾゾゾゾっとする。
これは何だろうか。
聖書に何も記されていないので、確言はできないのだが。
「あ、これは悪霊だな!」と見抜いた瞬間に、ゾクゾクした経験はないだろうか。
クリスチャンは、職場において、理不尽な攻撃を受けやすい。
なぜならば、悪霊が入っている人がいるからだ。
その人自身には悪意はなくても、悪霊がその人を利用するのである。
いろんな攻撃をしてくる。
いじめ、悪評を立てること、過剰に厳しくすること、こちらの気持ちをくじくようなことを言ったりやったりすること…
自分しか知らないような弱点を突いてくることがある。
「なぜこの人は私のここが弱いことを知っているのだろう」と。
それは、悪霊だからだ。
クリスチャンの場合、人間に頼ると、その頼った人に悪霊が入りやすい。
悪霊は常にわれわれをコントロールしようとしている。
弱気になって、神にではなく人に頼ると、悪霊はその人に入って、こちらをガンガン責めたてたり、さらにひどい誘惑に引きこんだりする。
巣にかかった虫を料理する蜘蛛のように、われわれを攻撃しだす。
正しい対策は、神に頼ること。そして、悪霊を縛ること。
そのためなら、山に入って荒行するくらいの熱心さが必要だ。
神の御名を百万回唱えるくらいでなければ努力したことにならない。
御名を唱えているうちに、われわれの地平に神がおられるとはっきりわかるようになる。
声が力強くなる。
自分の体の中に別の存在がいらっしゃるとはっきりと分かるようになる。
これは体験しないとわからない。
(2)
信仰とは、「絶対に弱気にならない」ということである。
「神に頼ってもだめなんじゃないか」と完全に思わなくなるまで徹底して思考様式を変えることである。
われわれの成長の度合いは、これをどれだけできるかで測ることができる。
信仰の土台は聖書に記されている。
キリストは世界の王であり、全権を掌握しておられる。
悪魔は紀元70年後、縛られているので力はない。
悪魔はわれわれに勝てない。
これをどれだけ本気で信じられるかである。
そして、それを徹底して実行するためにどれだけ執拗になれるかである。
(3)
これは、科学的思考法とは違う。
科学的思考法とは、信仰から出発するのではなく、データから出発する。
データを集めて、そこに法則性を見つけ、実験を通してその法則を個別のデータに適用して立証する。
このような方法は、被造物に対してしか適用できない。
創造者にして、主権者である神に対して、この方法は適用できない。
なぜならば、神を試すことになるから。
神を試すとは、神よりも上に立つことを意味する。
だから、偶像礼拝である。自分を神とする方法である。
科学的認識方法は、聖書に対して適用してはならない。
聖書については、信仰するしかない。
神が聖書において述べられたことをそのまま「はい。わかりました。従います」と言うしかない。
それ以外は、冒涜罪であり、陪餐停止に値する。
(4)
信仰の世界は、循環論である。
神は絶対である。
神の言葉は絶対である。
神を疑わない。
人が何を言おうと関係ない。
「君、自分の信仰の中をぐるぐる回っているよ。聖書が本当かどうかなぜ疑わないのだね」と言われても「サタンよ、退け!」と口に出して、もしくは、心の中で一喝する。
こと聖書に関する限り、われわれは一点の疑いも思考の中に入れてはならない。
もちろん、その他、つまり、被造物に関しては、科学的精神は有効である。
しかし、創造者に対しては「疑いはご法度」である。
創造者に対する態度と、被造物に対する態度はまったく違うので注意が必要だ。
2013年6月5日
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