既述のとおり、律法に関するディスペンセーショナリズムと契約神学の見解の違いは、原子炉に例えることができる。
契約神学では、モーセ律法の契約の二枚の板は、放射性燃料が、容器に閉じ込めておけば、電力を発生する燃料になるため有用であるように、人間にとって有用だと考える。
容器、つまり、契約の箱に収められた律法は、人間を導く羅針盤になる。
神の御心とは、世界が、神の法によって支配され、創造時の元初の秩序を回復し、秩序と平和と繁栄に満ちた世界になることである。
クリスチャンとは、この世界の回復と発展のために召された人々である。
だから、われわれにとって、律法とはなくてはならない指針である。
それによって、世界を指導していくためのガイドブック、マニュアルである。
しかし、ディスペンセーショナリズムでは、律法は、人を殺すものであり、もはや害毒でしかないという。
それは、原子力燃料をすべて危険視して、有害な影響しかないと言うのと似ている。
原子炉という容器に収められている場合に安全だといくら説明しても納得しないように、契約の箱という容器に収められているという事実を無視する。
そして、「原子力などすべてなくしてしまえ」という極端に走る人々のように、「律法など不要だ。われわれは律法に縛られない」ととく。
だから、ディスペンセーショナリズムに立つと、世界を指導する原理がなくなるので、クリスチャンが現実世界を扱えなくなる。
その点を指摘すると、「もうすぐ再臨があって、世界はまったく変わるので、今の世界を指導する必要はない」という。
このような神学がはびこって200年になる。
200年間、「クリスチャンは世界を指導する必要はない」と言って、政治や経済などについて聖書から教えることがなかったので、「世界から光が消えた」。
なぜならば、クリスチャンは世界の光だから。
あなたがたは、世界の光です。(マタイ5・14)
クリスチャンは、世界を指導する役割を負わされている。
その指導者が指導を放棄している。
だから、世界は暗闇になってしまった。
その代わりに登場したのが、啓蒙の光である。
啓蒙主義がはびこり、世界がイルミナティ(イルミネーションを持つ者)によって指導されてきた。
イルミナティが大学をはじめとして学界や教育界を支配してきた。
マスコミも支配されている。
全部、イルミナティの思想によって統一された。
だから、聖書の教えとはまったく反対の思想によって人々が洗脳され、新興宗教の信者のごとくイルミナティの教えに盲従している。
イルミナティは、キリスト教界も支配している。
リベラル派とバルト神学はカント主義(人間教)によって。
福音派とカリスマ派はディスペンセーショナリズムによって。
残ったのは、ヴァン・ティルの前提主義を土台とする再建主義しかない。
ヴァン・ティルに従うだけでは足りない。ヴァン・ティルは「聖書のみ。中立は存在しない」という原理を示しただけだから。
セオノミー(神の法)の登場が必要だった。
グレッグ・バーンセンとR・J・ラッシュドゥーニーという二人が登場する必要があった。
二人は神の法を回復した。
私はこの二人の書物をまったく偶然に手に入れた。
だから、私は神によってこれを伝えるように召されたのだ。
法に関しては大きな流れとして、自然法と神の法の対立がある。
これは、前者はグレコ・ローマン文化において、後者はヘブライ文化において保持された。
ヨーロッパ文明はずっと自然法を唱えてきた。
ローマ・カトリックは自然法である。
宗教改革において神の法が一部回復したが、完全ではなかった。
ヨーロッパの伝統の中で「自然法で何が悪い」という風潮は続いた。
自然法思想の大きな前提は「最初に自然秩序ありき」である。
聖書の神の創造とは、この自然秩序の中で行われた「追加」である。
だから、神の法は、自然秩序の権威にはなれない。それは、自然秩序の中の一部だけの権威である。
今日のクリスチャンが「聖書は救いに関しては権威だが、この世界のシステムに関しては権威ではない」と信じているのと似ている。
ヨーロッパ経由で入ったキリスト教は、自然法を捨てきれなかったという大きな欠陥があった。
ヴァン・ティルとグレッグ・バーンセン、R・J・ラッシュドゥーニーの流れは、これを根底から変えた。
神は「無から世界を創造された」ので、「世界のあらゆる部分に関して権威であり、聖書は神の言葉として権威を持つ」と考える。
聖書の絶対的権威を確立した。
自律領域を徹底して潰した。
その具体的適用として、グレッグ・バーンセンとR・J・ラッシュドゥーニーは律法を回復した。
判例法(ケース・ロー)をはじめとするあらゆる聖書法は、世界の万物に対する最終権威であって、それに対して文句を唱えることは人間には許されていないと。
実は、自然法に対しては、もう一つ攻撃者がいた。
それは、カントである。
カントは、人間を創造者に祭り上げた。
だから、人間が法となるので、自然法などの高等法(つまり、人間を超える普遍的な法)が消滅した。
現在の法律の基準は、「社会通念」である。
社会がそれをどうとらえるか。
つまり、人々の一般的考えが王様になっている。
何か人間を超える超自然的な存在ではなく、人間が法制定者になった。
人間が神になった。
そういう時代なので、政治も、科学も「超自然を嫌う」。
これを後押ししてきたのが進化論である。
創造ではなく、進化によって成立した世界。
だから、人間を超える法などない。
進化論はこのHPで何度も説明しているように、「確率的に進化は絶対に不可能」。
だから、現代世界は、カントの「人間教」によって洗脳されている。
嘘の上に成り立つ新興宗教が世界を支配している。
われわれは、聖書法を回復するしかない。
ロックとカントが自然理性の認識能力を否定したので、自然法には回帰できない。
残るは聖書法しかない。
ということで、われわれの活動が世界史的に見ていかに重要であるかお分かりいただけたであろうか。
眉唾と思われているかもしれないが、疑いがあるなら、調べてください。自分で。
私は20代にこれに気付いてずっと研究してきた。
昨日今日思いついたことではない。
調べてみれば、私が言っていることが誇張でもなんでもないと分かるでしょう。