「安倍政権打倒」をスローガンに掲げる人が、桜を見るために訪れた代々木公園で大人気だった安倍氏について、このようにツイートした。
これはアベではない、アベの仮面を被った枝野さんだ。枝野さんだからこんなに人気なんだ。
https://twitter.com/Datou_Abe_1/status/980450831236448256
これは典型的な「霊的盲目」の症状。
「見ていても見ず、聞いていても聞かず」は、神が裁きを下すために、盲目にされた人の症状である。
イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」(ヨハネ12・37-40)
イエスはパリサイ人たちの前で多くの奇跡を行われた。
「しるし」とは「イエスが来たるべき約束のメシアであることの証拠」である。
「多くのしるし」とあるので、イエスは、このような証拠をたくさん提示された。
なぜ証拠をたくさん提示されたのかと言えば、彼らが救われるためであろうか。
ノー。
「彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないため」である。
メシアの奇跡には2つの目的がある。
1.救いに予定された人が確証を得るため
神が救おうとされた人にとって、証拠は救いを確実にするためのものである。
イエスがメシアとしての奇跡を行われると、救いに予定された人は喜んでそれを受け入れる。
彼らは「あ、盲人の目を開けたのは、イエスが、イザヤの預言にあるメシアである証拠だ!」と理解した。
2.救いを拒絶する人が裁かれるため
しかし、証拠の提示には別の意味がある。
それは、「救われず、裁きの度合いが増すため」である。
イエスは「彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないため」に奇跡を何度も行われた。
拒絶の回数が増えれば増えるほど裁きは激しくなる。
つまり、奇跡そのものが裁きなのである。
安倍さんが人気者であり、どこに行っても大歓迎を受ける様を見れば見るほど、左翼のある人たちは「これは、安倍さんではない。枝野さんだ!枝野さんが安倍さんの仮面をかぶっているのだ!」と叫ぶ。
そのような光景を見れば見るほど、その人たちの「現実の拒絶」の回数が増える。
ねじくれた反応を繰り返すたびに、彼らの罪はますます大きくなる。
では、なぜ神は彼らを素直になるように導かれないのだろうか。
それは「彼らの役割が、裁かれることにあるから」である。
言ってみれば、彼らは桃太郎の鬼役なのである。
最初から「退治されるのが決定されている」。
神は、罪が積もり積もっていない段階で人を処罰できない。
裁きを下すには、罪は蓄積されなければならない。
イエスがパリサイ人の前で奇跡を何度も何度も行われたのは、彼らが裁かれるためなのである。
このように言うと「パリサイ人がかわいそうだ」と言う人がいるが、彼らは、その前の段階、つまり、悔い改める余地がある段階でさんざん拒絶していたのである。
神はチャンスを与えられる。
そのチャンスを足蹴にし、救いを拒むならば、神はある段階でその人を「盲目にされる」。
盲目にされる前に行われていた奇跡と、その後の奇跡では、意味がまったく異なる。
盲目にされる前での奇跡は、救いのチャンスとして与えられる。
盲目にされた後での奇跡は、罪が重くなるために与えられる。
罪が積もり積もって、裁きにふさわしい段階に達することを聖書では「罪の目盛りが満ちる」と表現されている。
おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。(マタイ23・32)
イスラエルはカナン人の「罪の目盛りが満ちる」まで、荒野で待機させられていた。
傷は、化膿する前にメスを入れられない。
奇跡は、化膿を促すために実行される。
目の前で、メシア以外にはできない奇跡が行われるたびに、それを拒絶する人の罪は増し、裁きにふさわしい状態に変わる。
つまり、どんどん頑固さが増す。
聖書的な教えを聞いたならば、それを素直に受け入れるべきである。
何度も拒絶していると、ある時点から、どのようにしても受け入れられなくなる状態に変わる。
そうしたら、その人は、ただ裁きを待つだけである。
頑固は恐ろしい。
自分が頑固になっているとわかったら、すぐに悔い改め、何か正しいことを拒絶していないか、確認すべきだ。
引き返すことのできない地点に達する前に。