教会で牧師を先生と呼んではならない?2


それから、牧師を先生と呼びたくないという人で、「その人の人格が先生の呼称に値しないから」という人がいるが、それなら、その人は、教会に来てはならない。

いいですか。

その人は、非常に無礼なことをしている。

「愛は礼儀に反せず」とあります。

無礼なことをしている人に愛はない。

だから、そんなことを平気でできる人はクリスチャンではない。

それから、教会にきているということは、利益のためにきているわけです。

「恵みを受けたい」とか「礼拝義務を果たしたい」と。

そのために牧師はサービスを提供している。

ならば、「先生という呼称に値する」でしょう。

違いますか?

じゃあ、伺いますが、その先生がどれだけのレベルになったら先生と呼べるようになるのでしょうか。

「最低でもだなぁ、これくらいじゃないと。。。」

そういっている人は、どれだけのレベルなんだぁ?

それから、聖書的原則によれば、牧師が非行に走っている場合、教会会議にかけるべき。教会会議にかけるまででもなければ、もう先生と呼べない教会に来なければいいでしょう。

牧師としても不愉快だから。他の「尊敬できる」先生のところに行きなさい。

「人を裁いてはならない。裁かれないためである」

教会に行って牧師を先生と呼びたくないという人は、何重もの罪を犯している。

1.無礼・無作法の罪
こんな人に限って、病院の医師や国会議員などには「先生」と呼んでいるもの。単なる権威主義者。牧師の社会的地位が低いから馬鹿にしているだけ。

2.ギブアンドテイクという聖書的原則への違反

サービスを一方的に受けることしか考えていない吝嗇。

自分から出て行くものは知識であれ金銭であれできるだけ少なくしたいと考えているエゴイスト。

もはやクリスチャンではありえない。

クリスチャンは聖霊によって尊い活動には資金を提供したいと促されるのが当然。教会への献金を渋る人は聖霊を受けていないとしか考えられない。

しかも、重要なことだが、十分の一献金を渋る人は、聖書では契約の民としてはみなされていません。契約にとどまるには最低でも十分の一を所属教会にささげなければならない。

もう一度言います。所属教会に十分の一をささげられない人は、契約から追い出され、永遠の命を失う。

牧師は、自分の教会の会員には十分の一を義務化すべき。拒否する人に対しては、聖餐を拒否すべき。

十分の一を拒否しても、永遠の命を受けられるというなら、どういう箇所から証明できるか示してほしい。


人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3・8、10)

3.字義拘泥主義

ディスペンセーション主義に多いこの手の解釈は非常に有害です。

「聖書は全部字義的に解釈できる」などという主義は、二三歩進んですぐに挫折する。

「獣は、売り買いを禁止した。これを象徴として解釈していいのか!字義的に解釈し、経済統制と考えるべきだ!」なんていう字義拘泥主義者に対しては、

「じゃあ、どうして獣は野獣と解釈できないのですか?どうしてそれを人間と解釈できるのですか?」

とたずねたい。

 

 

2011年5月19日

 

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