ヒューマニズムの土台の脆弱さ
世界観としてのキリスト教は、他のあらゆる思想を完全に凌駕している。
認識論の土台が神ご自身の自己認識にあるからだ。
ヒューマニズムの場合、土台は「疑っている自分」である。
すべてを懐疑の目で見ても、疑っているという自分の存在は疑えない。
これを出発点にしようと述べたのがデカルトである。
そこから認識を広げていく。
「自分が触っているテーブル。これも存在する。テーブルを支えている床。これも存在する。・・・」
この立場では、神存在は、人間の証明に依存する。
神は、人間が証明して「あげる」存在に堕する。
主客が逆転する。
現代人にとって神や宗教とは「心の平安を保つためのもの」でしかない。
「自分のために存在する神」。
これは、偶像礼拝である。
だから、ヒューマニズムの認識論では、偶像礼拝に陥る。
しかも大きな問題は、「物事の意味」をどうやって知ることができるかだ。
目の前の猫が存在することは証明できるかもしれない。
しかし、その意味は分からない。
猫は何のために存在するのか。
デカルトの認識論では、物事の意味や本質について知ることはできないということがロックによって批判された。
カントは、ロックの批判を受けて、「人間理性には限界がある」と認めた。
「人間から出発する思想において、認識に限界がある。現象の世界に関しては科学で認識できることにする。しかし、叡智の世界(意味や本質、宗教、倫理…)に関しては科学では認識できない」とした。
このままでは世界観はできないので、カントは、大逆転をした。
「人間にとってどうなのか、が問題なのだ。叡智界について理解できなくても、人間がそれを規定していけばよい」と。
「人間にとって意味がある限りにおいて神には意味がある」としようと。
人間が人間のために作り上げた宗教、これが、カント教。ヒューマニズム。客観的事実などどうでもいい。
人間が創造者になった。
以上のように、ヒューマニズムの基本は、「不可知論」である。
叡智界について認識をあきらめている。
そして、「人間が作ればいい」と開き直っている。
たとえて言えば、隣に誰も開けることができない部屋(たとえば、死後の世界)があるとする。
デカルトは「きっとこういうものがあるのだろう」という。
ロックは「いや、中に何があるか経験できないので、わからない。知ることはできない」という。
カントは「知ることはできないのだから、われわれにとって意味がないので無視しよう。われわれにとって意味があるものだけで世界を見ていこう」という。
カント以降、死後の世界についてクリスチャンが何か述べると、人々は「非科学的」と一蹴するようになった。
科学とは経験に基づくのだから経験できない死後の世界について何も言えないはずなのだかが、「非科学的」と烙印を押す。
不可知なものを切り捨てて「あたかもないものであるかのように」見る。
こういうごまかしが通用している。
しかし、これは「裸の王様」である。
いくら「非科学的」と馬鹿にしても、科学では死後の世界は扱えないのだから否定はできない。
だんだんヒューマニズムの側の嘘がばれてきた。
「え〜、なんで非科学的なのですか?ひょっとして、死後の世界について何も言えないのに、言えることにしたいんじゃないですか?なかったことにしようと?」
ヒューマニストは、クリスチャンをあざ笑うことによって、煙幕を張っているのだ。
自分が裸であることを隠そうとしている。
しかし、いくら煙幕を張っても、存在するものは存在する。
神は存在し、死後の世界も存在する。
人は一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが定められている。
「俺たちが勝手に世界を作ろうじゃないか」といったカント以降のヒューマニズムは、いくら消そうと思っても、神存在と死後の世界を消すことはできなかった。
いや、むしろ、自分たちがいかに「ごまかし」の上に立っているかが暴露されてきた。
(2)
ヒューマニズムは、人間を出発点に置くので、不可知論に陥る。
ヒューマニズムは土台が非常に脆弱である。
それに対して、キリスト教は、土台が神の自己認識なので完璧なのである。
世界が創造される前にあった知識は、神の三位の間の知識である。
神は無から世界を創造された。
だから創造の前に、何もなかった。
神だけがおられた。
この神だけがおられたときにあった知識。
これが神の自己認識であり、キリスト教の土台である。
だから突き詰めて、突き詰めて、突き詰めて、これ以上掘り下げるところがない部分に土台を置いているので、どの思想も勝てないのである。
なぜ聖書は絶対的基準なのか。
それは、神だけがおられたときに神の間においてもっておられた知識だから。
神は全知なので、死後の世界、物の本質、意味、すべて完全に知っている。
その完全な知識を持つお方が啓示してくださったものを受け取ることができるというのであるから、われわれは、死後の世界は意味の世界について知ることができる。
だから、不可知論にならない。
キリスト教にごまかしはないのだ。
ヒューマニズムのように、自分と他者をごまかす、裸の王様ではない。
私は、このごまかしをソ連において嫌と言うほど体験した。
ソ連で小学校を訪問したが、最高のショウを見せてくれる。
生徒が歌ったり踊ったりして歓迎してくれる。
中国も同じだ。
国の一番よいところを見せる。
そして、臭い物には蓋をする。
都合の悪いことは、報道規制する。
「人間だけで作ったこの国はなんと素晴らしいか見てください!」と訴える。
しかし、ソ連は70年で崩壊した。
ソ連は、カントの思想の具体化である。
われわれはこういう偽りの教えに騙されてはならない。
2013年3月21日
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