カルヴァン主義とアルミニウス主義の違いは、カルヴァン主義の5特質(TULIP)を見ることによって理解できる。
すなわち、
1.「全的堕落」(Total Depravity)
2.「無条件的選び」(Unconditional Election)
3.「限定的贖罪」(Limited Atonement)
4.「不可抗的恩寵」(Irresistible Grace)
5.「聖徒の堅忍」(Perseverance of the Saints)
である。
英語の言葉の頭文字を取るとTULIP (チューリップ) となる。
1.「全的堕落」(Total Depravity)
人間は、アダムにおいて全的に堕落した。
これは、完全・徹底的に堕落したという意味ではなく、人間存在のあらゆる部分に堕落が及んだことを示す。
人間の体で病気にならない部分がないように、人間で堕落していない部分はない。
理性・知性すらも堕落している。
彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。(エペソ4・18)
どんなに優れた知性を持つ人でも、堕落の影響を受けており、自力では真理を得られない。
それゆえ、学問が信仰から離れるならば、次第に誤謬に流れる。
主を恐れることは、知恵のはじめである。(箴言9・10)
クリスチャンが学校を作るならば、まず主を恐れることを教えるべきである。
主を恐れない人は、知恵を得られないので、知識が無駄になる。
韓国は、世界でトップクラスの教育成果を誇るが、やることなすこと失敗する。
平気で嘘をつき、人の過去をいつまでもいつまでもほじくり返して謝罪を求める。
神の御前に立ち、裁きを恐れないので、せっかくの教育も無駄になる。
一時的に裕福になっても、再び貧困と悲惨に舞い戻る。
非霊的な事柄について、人間の知性は堕落し、不完全であるが、霊的な事柄については、完全に死んでいる。
なぜならば、アダムが罪を犯したときに、聖霊が去ったからである。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1・21)
自分の知恵では、神を知ることがない。
ノンクリスチャンがどんなに学問を積んでも真の神の知識にはいたらない。
霊的な知識は、聖霊を受けなければならない。
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ1・17)
聖霊を受けていない人は、霊的な死人であるから、救われたいとすら思わない。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、(エペソ2・1)
ただ神の決定によって、人はキリストを信じることができる。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。(ヨハネ6・44)
アルミニウス主義において、人間とは「海上で溺れて助けを求めている人」であるが、カルヴァン主義において、人間とは「溺れて海底1万メートルに沈み、鮫に心臓を食われている死人」である。
それゆえ、助けを求めることすらできない。
ノンクリスチャンが教会に行こうとせず、聖書を読もうとせず、キリストの十字架の救いの物語を聞いても、何も感じず、神に仕えようとしないのは、「死んでいるから」である。
霊的な事柄について、人間は死人である。
2.「無条件的選び」(Unconditional Election)
死人なので、救いを受けるには、神からの選びがなければならない。
神が「御心のままに」ある人を救いに予定され、一方的にその人のもとに近づき、鮫に食われた心臓を新しく作って植え付け、体にいのちの息を吹きかけられ、よみがえらせ給う。
復活し、意識を取り戻したその人は、自分が溺れていることに気づく。
そして助けを求め、信仰を得る。
人間の側には一切の条件はない。
頭がいいから、お金持ちだから、宗教的な人だから、善人だから、とか関係ない。
ただひたすらに、神の一方的な決定によって選ばれる。
われわれがまだ存在しないはるか昔、天地が作られる前から、誰を選ぶかは決定されている。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1・4)
アルミニウス主義は「条件的選び」を信じる。
すなわち、神は将来キリストを信じることを予見された人を救いに予定すると唱える。
つまり、救いとは、神と人の共同作業なのである。
人の決意に、神の決定が依存する。
しかし、聖書はこの考えをはっきりと否定している。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・11-16)
最初から最後まで、徹底して神の決定のみによって救いは実現する。
神が「この人は福音を伝えると信じそうだな。じゃあ、選ぼう」などと考えられたと記す箇所は聖書にはない。
3.「限定的贖罪」(Limited Atonement)
キリストの十字架の救いの効果は普遍的であり、全宇宙に及ぶ。
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
しかし、実際に救われるのは、選ばれている人だけである。
贖罪の効果は、神の一方的な恵みによって選ばれた人々にのみ適用される。
一般的な恩恵は、選ばれていない人々にも与えられる。
…天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる…。(マタイ5・45)
ノンクリスチャンでも科学的研究をし、社会秩序を維持し、この地上を正しく運営することができるのは、この一般恩恵があるからである。
しかし、特別恩恵であるところの「十字架による贖罪」は、選ばれた人のみに適用される。
薬があっても、飲まなければ効かない。
それと同じように、救いがあっても、信じなければ適用されない。
選ばれていない人は、霊的な事柄については死人のままであり、信じようとしないので、贖罪の適用を受けない。
アルミニウス主義は、キリストの贖いが個人に対して有効になるかどうかは、神の選びだけではなく、人間の側の決断にも左右されると考える。
4.「不可抗的恩寵」(Irresistible Grace)
人間は、救いの恵みを拒むことができない。
選ばれた人に対して神は主権的に贖罪を適用される。
どんなに逃げ回っても、選ばれた人は救われる。
神の国建設のために積極的に働こうと決意できるのも、神が決定されたからであって、われわれの側で意図したからではない。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2・13)
「志を立てる」ことすらも、神の恵みである。
アルミニウス主義は、救いの恵みを拒む力が人間にあると考える。
5.「聖徒の堅忍」(Perseverance of the Saints)
救いの決定と主導権が神にのみ属するので、一度救われた人は、絶対に滅びることがない。
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・39)
神が「救おう」と決意された以上、それを妨害できる者はいない。
救われた人は、必ず最後まで救いの中にいる。
選ばれた人は、一時的に信仰から離れたとしても、帰ってくる。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1・6)
アルミニウス主義は、救われた人でも滅びる可能性があるという。