自然は管理し、発展させるべきものである


原生林を尊ぶ風潮は非聖書的である。

「自然のままがいい。人間がいるからダメになった」というのが自然を究極とする自然主義者の考え方。

聖書では、自然は人間の堕落に伴って堕落した。

「あなたのゆえに地は呪われた」のである。

この呪いは、イエス・キリストの十字架、復活と昇天によって解除された。

「天地のいっさいがキリストにおいて神と和解」した。

しかし、これは、法的な和解であって実際的なそれではない。

天地万物は法律上神と和解しているが、実際には敵対している。

自然を実際的に和解させるのは、クリスチャンの業である。

神の法にしたがってクリスチャンが地を呪いから解放しなければならない。

それが科学を含む労働の意味である。

労働とは、世界を実際的に神と和解させることである。

共産中国人のように神と和解していない人々が自然をいじると、自然はダメージを受けて、取り返しのつかないことになる。

中国人が自然を管理するには、まずキリストを受け入れ、心において神との和解を達成し、御霊をいただいて、神の法にしたがって勤勉に仕事に取り掛かる必要がある。

クリスチャンでなければ本当の意味において自然を管理することはできない。

自然はクリスチャンの登場を待っている。


被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8・19-23)

神の子の栄光の自由は、人間だけに与えられるのではない。

被造物全体が栄光の自由の中に入る。

われわれの体は、キリストを信じたときに贖われた。

しかし、これは、依然として滅びる運命にある暫定的な体である。

われわれが召されたときに与えられる体は血肉ではない体、御霊の体である。

これは永遠の栄光の自由の体である。

被造物全体もキリストを信じた人々によって神の国に加えられるときに贖いの中に入る。

神の法に従った労働を通じて被造物は復活しつつある。

しかし、これは、まだ滅びる運命にある暫定的なものである。

歴史が終わるときに、被造物は永遠の栄光の自由に入る。

永遠の体を持った人々は、その被造物を自らの所有として永遠に楽しむことができる。

われわれが地上においてどれだけ神の国を拡大することができたか。

それに応じて、われわれには任せられる領域が決まる。

各人の天における報いは、能力に応じて地上の任せられたものを何倍にしたかによって違う。

わずかなものを与えられた人は、わずかなものをどれくらい増やしたかによって決まる。

年商1千億の企業の管理を任された人は、それだけ大きな仕事をしないと、御国における報いは少ない。

だから逆転が起きるかもしれない。

年商1000万の社長が1千億の社長よりも多くの報いを受けるかもしれない。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12・48)

このように、被造世界は、人間が管理する場として与えられた。

だから、「自然のままがいい」という考えは間違いである。

自然は賢く管理し、その生産性を伸ばし、世界が時間とともに神の国らしく栄光に富んだものに変えなければならない。

そのためには科学を発達させる必要がある。

治水技術を発達させ、洪水が起きないようにダムを建設し、護岸工事をし、秩序が確立されるように管理しなければならない。

今の環境保護運動は、「自然のままがいい。人間が破壊している。だから人間の数を減らせ」というフリーメイソンの人口抑制論に基づいているので悪魔的である。

 

 

2013年11月19日



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