様々な教えの風に吹きまわされないために


1996年は、私が按手礼を受けた年であり、このミニストリが始まった年である。

1996年1月に小林隆利師の講演会が寄居であり、その後、小林師と中路師、横山師によって、按手をしていただいた。

3月に、原爆記念館を訪問するために長崎に行った。

観光バスに乗る際に、「自分を捨て、自分の十字架を負って私に従ってきなさい」との御言葉が頭に浮かんだ。

その時、直感で「ああ、この御言葉のために長崎に来たのだ」と分った。

バスで市内を観光する中で、キリシタンの殉教者の記念の建物などを訪れた。踏絵とかいろいろなキリシタン関連の文物を見学した。

旅行の主な目的である原爆記念館は、工事中で半分開いていなかった。

しかし、私にとってそんなことはどうでもよくなった。

なぜならばキリシタンの記念物に大きく心を動かされていたからだ。

あるローマ・カトリックの教会において『雲仙の殉教者たち』という本を買って喫茶店で読んだ。

文字通り雷に打たれたような衝撃を受けた。

殉教者たちのあまりの聖さと気高さ、強さに全身が打ち震えた。

その後、二十六聖人の碑があることを思い出し、場所を聞いて歩いて訪れた。

坂道を上り、その碑がある公園の中に一歩足を踏み入れたときに、そこが聖く、高貴な、特別の場所であると直感した。

霊的に自分を圧倒する光輝く光景であった。

特別何かそこにあったわけではない。

その場の雰囲気全体が天国のように思えた。

後でわかったことだが、そこでは多数のキリシタンが逆さ吊りの刑で殉教したという。

公園の中を進んでいくと、碑が見えてきた。

それはレリーフで、本当に聖く気高い人々が両手を合わせて天を仰ぎみて並んで立っていた。

真ん中にはなんと、バスに乗り込む時に心に浮かんだあの御言葉「自分を捨て、自分の十字架を負って私に従ってきなさい」が刻まれていた。

あの年には、非常に不思議なことがたくさん起きた。

同労者の川口氏が、預言の賜物を重視するある団体の牧師と知り合いになった。

その牧師の教会がある長野県U市に行って礼拝に出ていると、突然天井にかかっていたシャンデリアの玉の一つ一つが骸骨に変わり、目の前の牧師が死神の装束をし、顔が骸骨に変わった。周りの信徒たちの顔も骸骨に変わったという。

知り合いになったきっかけは、奥さんが預言をしてもらうために事務所に呼んだことであった。

その牧師は、出会うなり大声でどなった。「おまえは、自分の野心のためにこの仕事をしている」と。

その後、その事務所は自分が経営者になるから、川口氏は従業員になれと言ってきた。

つまり乗っ取りである。

あの教会には、多くの預言の賜物があると自称する人々が集まっていた。

その中の一人M子さんという人と会ったことがある。

会うなり、私について預言をし始めた。

「あなたは、駐車場の中を歩いているときに、『昔は路傍伝道なんてよくやっていたなあ』とつぶやいたでしょう!」

たしかに近くのスポーツジムの駐車場を歩いているときにそのようにつぶやいたことがあった。

そのほかにも、いろいろ自分が心の中でつぶやいたことをズバズバ言い当てた。

私が長崎から帰ってきて、体験を報告するために事務所によると、川口氏が預言を始めた。

「おまえは、心の中でこういうことを考えているだろう」と。

たしかにそうだったのだが、あまりに無礼だったので何も言わずに帰宅した。

後で、「あのとき、ぶしつけにこんなこと言いましたよね」と尋ねたら、まったく覚えていなかった。

預言の世界は不思議である。

聖霊も悪霊も人間を通して語ることがある。

自分しか知らないことを暴露する。

私は、このような霊的な体験から、「預言はあてにならない」と悟った。

たしかに霊的な現象であることはわかる。

しかし、その霊というものが、聖霊なのか悪霊なのかは判別が難しい。

だから、聖書の裏付けが必要なのだと思う。

「預言は吟味せよ」と聖書にある。

預言をそのまま放置してはならない。

必ず、聖書によってチェックしなければならない。

中学生のときに、放課後、教室で同級生がコックリさんをやっていた。

最初のうちはいろいろ教えてくれる。

しかし、術者が知りたい肝心な点については逃げ回る。

嘘やデタラメを言う。

占いの本質は、悪霊の騙しである。

M子が川口氏の事務所に出入りするようになってから、事務所の中が異様な、気持ち悪い空気になった。

川口夫妻のことを細かく言い当てた。

「パパとママは、ここで喧嘩してこういったでしょう」と言った。そのとおりだった。

夫妻は、M子を信用するようになった。

ここで大きな穴が心に開いた。

サタンはそれを見逃さなかった。

預言をすっかり信じるようになった夫妻の娘さんについて、とても恐ろしい予言をしたのだ。

それで夫妻も娘さんも恐怖に落とされた。

結局そんなことは起きなかったのだが、これがサタンの方法なのだ。

霊現象を信じさせて、深入りさせる。

そして、自分を信用するようになったと判断すると、その相手の信仰の破壊に取り掛かる。

天使からのメッセージだとか、UFOからの指令だとか、そういう霊的な働きを真に受けて、社会的信用を失い、家庭を破壊し、友人関係を破壊した人がたくさんいる。

霊の世界はきわめて微妙であり、それまで神の預言の霊だと思っていたが、いつのまにか、悪霊にすり替わっていたなどというようなものだ。

だから、クリスチャンは、「霊を軽々しく信用してはならない」と聖書において警告されているのだ。

霊的な世界は、科学の検証が及ばない領域である。

だから、聖書しか確認の方法がないのだ。

霊的な世界についても、聖書の言葉によって厳密にチェックしなければならない。

聖書に反する預言であれば、それを言下に否定すべきだ。

聖書から逸脱すると、神秘主義になる。

逆に、「霊現象はない」とか「奇跡は起こらない」というのも悪霊が流布している間違った考え方である。

聖書には、無数の霊的な現象が記されている。

私の長崎での体験が、本当に霊的な現象であったのかわからない。

ローマ・カトリックへの誘いのために起きたのかもしれない。

それについては、聖書によって判断するしかない。

様々な教えの風に吹きまわされないために、聖書信仰は絶対に必要だ。

 

 

2014年11月12日



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