神は、万象について徹底して能動的である。
つまり、神は宇宙で起きる一切の出来事について、ご自分が予期していないことが起きることはないし、計画の中にないことは起きない。
神は「しまった!こんなことが起きてしまった!」と言われることは絶対にない。
神は何にも影響を受けない。
悪事が起きても、それは「神が許容したから」または「神の計画にあったから」起きる。
だから、常に神は能動的なのである。
神が受動的であることはない。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイ10・29)
宇宙は徹底的に許認可制なのである。
宇宙では、神の許認可がない限りなにも起きない。
非予定論は、この大原則に対する違反である。
「神は、人の救いについて受動的である」と述べる。
神は「ユダには、救いを受け入れてほしかったのに。残念だ」と言われると。
「ヤコブは、期待どおりに、救いを受け入れたが、エサウは、どんなにこちらが頑張っても、受け入れなかった」と。
違う。
聖書はそんなことを教えていない!
「生まれる前から、ヤコブは救われる計画であり、エサウは滅びる計画だった」と書いてある。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。(ローマ9・11-13)
「まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方による」
「神の選びの計画の確かさ」は、「行ないにはよらず、召してくださる方による」のだ。
神の選びの計画は、行為とは関係なく、神によって決定されている。
「まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうち」に、神の選びの計画は神によって決定されている。
だから、救いとは、もっぱら神の側の問題であり、人間の側の問題ではない。
人間がどう行動しようと、変わらない。
神の側で永遠の昔に決定されている。
だから、われわれがどんなに「Aさんは救われてほしい」と望んでも、われわれができることは、Aさんに福音を伝えることだけである。
Aさんがそれを受け入れるか、拒絶するかは、神の側の計画であって、われわれはどうにも手がでない。
ミレニアムでどんなに聖書の教えを伝えても、予定されている人は信じるし、予定されていない人は信じない。
「これだけ頑張ったから、Aさんは受け入れてくれるだろう」などと考えるのは傲慢である。
福音に関して、予定されていない人は、どこまで行っても「自分の考え」を持ち続ける。
福音に関して、予定されていない人は、心を変えることがない。
聖書啓示に対して従順であるかどうかは、徹底的に「生まれ」に依存する。
予定され、神の民になるように生まれてきた人は、聖書の教えを伝えると「瞬時に」受け入れて、悟る。
だから、神の民の間には、親和性がある。
神の民だけが集まると、聖書の話をしてもすんなり受け入れられる。
しかし、神の民として生まれていない人が中にいると、聖書の話をしても「跳ね返る」。
スポンジのように吸収する人の間に、レンガのようにはねつける人が混じっている。
レンガだらけの集会もある。
何を話しても、こちらの言葉がそのまま跳ね返ってくる。
話しても吸収されない場合、「こりゃだめだ」とあきらめるしかない。
百時間話し続けても彼らが変わることはない。
なぜならば、選びだから。
レンガとして生まれてきた人にスポンジになれと命令してもどうしようもない。
何十年、聖書の正統的教理を繰り返しても、考え方を変えない人は、もともとわれわれの仲間ではなかったのである。
彼らは、「神が心を開けなかった」人である。
安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。
テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。(使徒の働き16・13-14)
「集まった女たち」の中で、「パウロの語る事に心を留め」たのは、「主が心を開」かれたルデヤだけであった。
聖書の教えを信じることができるのは、「主が心を開」かれた者だけである。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・16)
「人間の願いや努力」は関係ない。
神が「あわれんでくださる」かどうか。
救いから漏れる人については、気の毒としか言いようがない。
しかし、それは、神の決定なので、われわれは感謝し、神を賛美する。
なぜならば、神の決定は「常に最善」だから。