彼らはわれわれが正しいことを知っている


ノンクリスチャンにしても、聖霊によって生まれ変わっていない自称クリスチャンにしても、クリスチャンが聖書に基づいて行う議論が正しいことを理解できる。

どんなに「神はいない」とか「聖書ではそうかもしれないが、私は違った意見がある」と強がっていても、神は必ず、超自然的なアプローチをされ、聖書的議論が正しいことを圧倒的な力によって彼らにお示しになる。

だから、言い逃れができないのである。


たとえば、ノンクリスチャンは、自らの自然主義的な原理に徹底して従おうとするかもしれない。そして、自分はそのようにしていると主張するかもしれない。しかし、実際には、そのような試みは不可能である。ノンクリスチャンは、自らを取り巻き、その内側に働く神の啓示の強烈なパワーから逃れることができない。実際、聖霊の一般恩恵によって、彼は、その証言を消し去ることができないのである。
・・・
このため、護教論者は、「ノンクリスチャンが奉じる哲学は妥当ではなく、その事実の解釈は間違っている」と圧倒的な説得力をもって主張することができるだけではなく、「ノンクリスチャンは、護教論者が論理的に妥当であることを理解し、感じることができる」と期待することもできる。

ヴァン・ティルは次のように述べる。「それゆえ、知的な議論では、ノンクリスチャンを納得させ、回心に導くことはできない。聖霊の再生の力がない限り、そのようなことはけっして起きない。しかし、説教の場合と同様に、護教論においても、聖霊は、人々の精神と心への『間接的』アプローチ法を利用することがおできになる。自然人[訳注:回心し生まれ変わったクリスチャンではない人]は、クリスチャンが自らの立場の正しさを納得させるために行う議論を知的に理解できるので、神がこの世の知恵を愚かにされたということも理解できる。キリスト教が、ノンクリスチャンの思想と比べて同程度であるとか『それよりも勝っている』ということを示すことができるだけではなく、人間の経験を無意味にすることのない『唯一の』立場であることを示すことも可能なのである。」(Van Til, A Christian Theory of Knowledge (Philadelphia: P&R, 1969), 19.)
(Greg Barnsen, Van Til's Apologetic, P&R, 1998, p. 33)

教会成長学では、ノンクリスチャンに合わせて大きな妥協が行われる。

「罪などという言葉を使うとノンクリスチャンを不愉快にし、遠ざけてしまう。」などという理由で、「不完全」などの言い換えが行われてきた。

しかし、聖書によれば、ノンクリスチャンは、聖書の正しさについて十分に理解できるのだ。

こちらが膝をかがめなくても、ノンクリスチャンは、われわれの言葉が理解できる。

理解できないのは、理解しようとしないからなのだ。

神は圧倒的な光をノンクリスチャンや偽クリスチャンの前に輝かせ、聖書的クリスチャンの言説の正しさを証明される。

だから、彼らは、われわれが正しいことを知っているのである。

 

 

2013年5月20日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net