番人としての責任


神学校の授業で『原理講論』を読んで批判せよとの宿題が出た。

売っているところがなかったので、直接統一協会の支部に出掛けて交渉したが、「売れません」と断られた。

女性信者の人の印象は、化粧っけがないこと。

ある意味純朴だからああいう教えにひっかかるのかもしれない。

ものみの塔の宣伝員が子供を連れて家を訪問しているのを見ると哀れに見える。

「あんな教えに騙されて。。。」と。

しかし、新興宗教に騙されている人には同情はできない。

これは、詐欺に騙されて高額の商品を買わされた人と同じで、脇が甘かったということだから。

人間は、門番として創造されている。


神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(創世記2・15)

「園を守る」のが仕事だった。

人類の失敗とは、サタンから園を守れなかったことにある。

つまり、「サタンの教えを受け入れた」ことこそ人類の根源の失敗である。

われわれの祖先は、「あなたはその実を取って食べても死にません」という教えを受け入れ、新興宗教を受け入れた。

人体は神の国である。

体内は聖域である。

毒物が入らないように防御しなければならない。

鼻はチェックのためにある。

においで口に入れるものをチェックする。

このチェック機能をしっかり働かせないと、悪いものが体内に入り、病気になったり死んだりする。

新興宗教に入る人はかわいそうな人でも何でもない。

腐ったものでも毒物でも食べる不注意な人だ。

オウムに入って人殺しをして人生を台無しにしたとしても、気の毒でも何でもない。

聖書に反する教えは、すべて詐欺である。

詐欺師に騙される人は、人間にもともと与えられた「園の番人」としての働きを十分にしていないのである。

注意すべきは、われわれの体内に入るのは食べ物や教えに限らない。

今、サタンはTVを通じて、ホモやオカマを受け入れさせようとしている。

「同性愛も一種の愛の表現なのだ」とのサタンの教えを受け入れさせようとしている。

また、「殺人を犯しても死刑にすべきではない」との教えも受け入れさせようとしている。

聖書では、はっきりと「目には目」と教えている。

刑罰は、犯罪と比例しなければならないと規定している。

こういった教えを受け入れることによって、われわれの基準はめちゃくちゃになり、社会は崩壊する。

占いをしたり、交霊術をしたり、新興宗教に入ることによって、われわれの精神は異常になり、悪霊にとり憑かれる。

表面的には普通でも、確実に悪霊は入る。

なぜならば、悪霊は、聖域に入ろうとしているからだ。

われわれの体内に入って住み着こうとしている。

エデンの園であるわれわれの体に入ってそこをめちゃくちゃにしようとしている。

だから、異なる教え、サタンの業に同意することによって、悪霊が入り、その支配の度合いはどんどん進んでいく。

園の番人として、われわれは、善悪の区別をつけなければならない。

悪は徹底して避ける。

悪魔を入れてはならない。

これに失敗して悪霊にとり憑かれても本人の責任である。

性的に堕落して、性病になった責任が自分にあるのと同じだ。

われわれの周りには無数の誘惑がある。

それに巻き込まれるかどうかは自分しだいだ。

 

 

2011年2月19日

 

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