聖書に含まれているという事実が神の言葉であることを意味する
福音書は、同じ記事が出てくる(とくに共観福音書)。
カルヴァンはそれらをひとまとめにして講解しているが、それぞれの記者の目から独自の解釈が行われており、同じ記事でも違う意味が与えられている。
それは、聖書研究をすればすぐに見えてくるものであり、大学時代、聖書研究会というサークルで聖書を勉強する中で確認した。
聖書は文脈の中で読まなければならない。
文脈の中でその記事にどのような意味が与えられているかを考えるべきだ。
だから、私は、よい注解書を片手に自分で聖書研究することをお勧めする。
牧師やだれか他人が調理したものだけではなく、自分の目で確認しながら、聖書を一つ一つ解釈し、調理する作業は非常に有益だ。
福音書の各記事は、記者の独自の解釈にしたがって並べられている。
だから、それらは「歴史的事実」ではないという人がいる。
これは、聖書の何たるかを知らない人の見解である。
聖書は、「歴史的事実の記録」ではなく「使徒たちの証言書」なのである。
神は、使徒たちに「イエスを証言しなさい。その証言は、聖書に含まれるときに神の言葉となる」と言われたのだ。
律法に「二人または三人の証言によって真実が明らかにされる」との規定がある。
イエスは、弟子たちを二人または三人つれて御業と奇跡を行われた。
証言させるためだ。
だから、「使徒たちの解釈そのもの」が神の御言葉なのである。
よくノンクリスチャンの本文批評家たちが、「旧約聖書には、当時の体制に沿った改変が行われている」などと言うが、「その改変を含めて聖書」なのである。
聖書記者の主観そのものが神の霊の導きによっているのである。
だから、聖書に含められ、記されているという事実そのものが、「神はこの聖書記者の主観をご自身の見解としておられる」ということを意味する。
しかも、イエスが神の言葉と認められた当時の旧約聖書とわれわれが使用する旧約聖書は同じである。
イエスが認められたという事実は、それがどのような恣意的な要素が含まれていたとしても、「それは神の言葉である」と認めることを許容するのである。
たとえば、会社において、社長が何から何まで書類を作るわけにはいかない。
大きな会社になればなるほど部下による働きに依存する以外にはない。
部下が主観を交えて書いた書類を社長が認めて印鑑を押したならば、その書類は社長が作成したものとなる。
大統領や首相の演説原稿は、だいたいがそれ専門の担当者が作成する。
しかし、大統領や首相がそれを読み上げるときに、それは、大統領や首相の言葉となる。
同じように、福音書記者、旧約聖書記者が主観を交えて書いたものを神が聖書に加えられたのであれば、それは、神の言葉なのである。
そこにどのような恣意的な要素が混入していたとしても。
だから、「恣意的な要素がある。だから、聖書は人間の言葉であって神の言葉ではない」ということにはならないのだ。
こういう稚拙な言説でクリスチャンは信仰をぐらつかせられ、神の言葉に対する信仰を奪われてきた。
そろそろ、こちらも大人になるべきだ。
聖書に正典として含まれていて、しかも、イエスご自身、イエスが証言者として任命された使徒自身の言葉であるならば、どのような私的な感情や主観が含まれていても、全部を神の啓示として受け入れるべきだ。
不信仰な人々に騙されないようにしよう。
2013年5月20日
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